「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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13世紀半ばからの皇帝フリードリヒ2世と教皇庁の抗争は、[[ドイツ]]・[[イタリア半島|イタリア]]における神聖ローマ帝国の権威を衰退させていた<ref name="horupu"/>。教皇庁の軍事力を支える帝国の混乱は教会が所有する土地の治安の悪化をもたらしていた<ref name="kikuchi134">菊池『神聖ローマ帝国』、134頁</ref>。[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]][[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル1世]]は甥の[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]をドイツ王に推薦しており<ref>瀬原『スイス独立史研究』、3頁</ref>、王権を強化しつつあるフランスとドイツにまたがる帝国が姿を現そうとしていた<ref name="kikuchi134"/>。[[1272年]]にドイツ王候補に挙げられていたコーンウォール伯[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]が没すると、教皇[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]は[[選帝侯]]たちに神聖ローマ帝国の君主の決定を強く求めた<ref name="kikuchi134"/>。
 
国王選挙の主導権を握る[[マインツ大司教]]ヴェルナー・フォン・エッペンシュタイン、[[ライン宮中伯]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ]]を通して選挙を進める[[ニュルンベルク城伯]][[フリードリヒ3世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ]]の2名はルドルフをドイツ王に推薦した<ref name="kikuchi137"/><ref name="tue152">ツェルナー『オーストリア史』、152頁</ref>。<!-- 菊池『神聖ローマ帝国』ではニュルンベルク城伯ハインリッヒ -->ルドルフは選帝侯の誰とも私闘状態(フェーデ)になく、世俗諸侯からは凡庸な同輩と見なされていた<ref name="wee39">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、39頁</ref>。選挙当時50歳を超えていたルドルフは当時としてはすでに老齢であり、選帝侯たちはルドルフの統治は短期間で終わると考えていた<ref name="morita-m"/><ref name="wee39"/>。また、ヴェルナーとフリードリヒは、皇帝フリードリヒ2世が没した後もホーエンシュタウフェン家を支持し続けるルドルフの義理堅さを評価していた<ref name="kikuchi137"/>。
 
国王選挙の当時、ルドルフは[[バーゼル司教]]ハインリヒと土地・権限を巡って争っており、バーゼル市に包囲を敷いていた<ref name="wee39"/>。1273年9月20日<ref name="kikuchi138">菊池『神聖ローマ帝国』、138頁</ref>、ルドルフの陣営を訪れたニュルンベルク城伯からドイツ王への選出を知らされ、思いがけない知らせにルドルフは驚愕した<ref name="wee39"/><ref name="kikuchi138"/><ref>江村『ハプスブルク家』、23頁</ref>。すぐさまバーゼル司教と講和を結んで包囲を解き、選帝侯会議が行われている[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に向かった<ref name="kikuchi138"/>。ルドルフは[[アーヘン]]で戴冠を受け、その後封土の授与を行った。即位に際してルドルフはグレゴリウス10世に即位の承認を求める嘆願書を提出し、グレゴリウス10世から認可を受けた<ref name="wee40">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、40頁</ref>。ルドルフはドイツ人民と教会の両方から即位を認められた大義を得、[[1275年]]に[[ローザンヌ]]でグレゴリウス10世と会談を行った<ref name="wee40"/>。また、ルドルフの即位に伴い、王妃となった妻のゲルトルートはアンナと呼ばれるようになった<ref>江村『ハプスブルク家史話』、38-39頁</ref>。