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'''毛利 興元'''('''もうり おきもと'''、[[1492年]]([[明応]]元年)-[[1516年]][[9月21日]]([[永正]]13年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]))は日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将で、[[安芸国]][[国人]]・[[毛利氏]]当主。[[毛利弘元]]の嫡子。弟に[[毛利元就]]・[[相合元網]]・[[北就勝]]。子に[[毛利幸松丸]]([[夭折]])。幼名は幸千代丸。
 
弘元の隠居にともない若年にて毛利氏当主となる。[[1507年]]、[[明応の政変]]により、[[足利義稙]]を奉じて京都に上洛した[[大内義興]]に従い、4年間在京し、[[船岡山合戦]]にも参加した。在京中に[[出雲国|出雲]][[尼子氏]]の勢力が盛んになり、芸備地方は尼子氏と[[大内氏]]の勢力がぶつかり合う場となった。興元は、安芸国では他の有力国人領主([[高橋久光]]・[[平賀広保]]・[[天野興次]]ら)と一揆契約([[安芸国人一揆]])を締結、[[備後国]]でも国人対立の調停を行うなど、芸備の国人領主のリーダー格として活躍した。しかし近隣の[[宍戸氏]]との争いは際限なく続き、その心労を解消するために酒に走るようになる。結局、酒の害により25歳の若さで急死した。