「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の版間の差分

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== 人物 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1986-110-14A, Ahlbeck, Kaiser Wilhelm II. mit Kindern.jpg|200px|thumb|right|カイザー・ヴィルヘルム・キンダーハイムの子供たちと]]
[[File:Voelker Europas.jpg|thumb|200px|ヴィルヘルム2世の原画を宮廷画家の[[ヘルマン・クナックフス]]が仕上げた[[黄禍論]]に関する寓意画「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」。[[1895年]]の夏に発表され、[[欧米]]諸国の首脳に配布されたこの寓意画は「'''黄禍'''」という概念を世界に広めるのに大きな役割を果たした]]
ヴィルヘルム2世の時代は進取の気性と保守性とが混在した過渡期だったが、それには皇帝個人の嗜好も大きく影響している。芸術的には保守的で、[[ゲアハルト・ハウプトマン]]の作品のような自然主義文学を「排水溝文学」と呼んで否定しているが、技術的な進歩には非常な興味を示し、学術団体[[カイザー=ヴィルヘルム協会]]を設立して科学者を援助した。しかし、自らは自動車や船に乗ることを恐れていたといわれている。
 
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日常的に大酒飲みだったわけではないが、必要に応じて酒は嗜んだ。しかしフランス嫌いからか[[シャンパン]]は嫌っていたという<ref name="村島(1914)18">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.18]]</ref>。またヴィルヘルム2世は[[ヘビースモーカー]]であり、若い頃には特注で作らせていた強い煙草を朝から晩まで吸っていたという。しかし後年には健康を害する危険から控えるようになったという<ref>[[#村島(1914)|村島(1914)、p.18-19]]</ref>。
 
[[黄禍論]]者であり、[[中国人]]は徹底して蔑視していた。[[日清戦争]]の講和条約である[[下関条約]]に対して[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]による[[三国干渉]]が行われた直後の[[1895年]]の夏に、ヴィルヘルム2世が原画を描き、宮廷画家の[[ヘルマン・クナックフス]]が仕上げた寓意画「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」をヴィルヘルム2世が[[ロシア皇帝]]の[[ニコライ2世]]や[[フェリックス・フォール]][[フランスの大統領|フランス大統領]]、[[ウィリアム・マッキンリー]][[アメリカ合衆国大統領]]らに配布したことにより、黄禍論は世界に流布するに至った<ref>[[#飯倉(2013)|飯倉(2013)]]、pp.51-60</ref>。[[義和団の乱]]鎮圧のために[[]]に出征するドイツ兵たちに向けてヴィルヘルム2世は「諸君が敵と思ったらすぐさま殺せ。慈悲は無用である。捕虜などというまどろっこしい物は必要ない」と演説している<ref name="星乃(2006)31">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.31]]</ref><ref name="学研(2008)上166">[[#学研(2008)上|『図説 第一次世界大戦 <上>』、p.166]]</ref>。日本に対しても[[三国干渉]]の際に黄禍論を展開するなどしたが、一方でドイツをモデルにして近代国家建設に努力する日本人については「東洋のプロイセン」と呼んで好感も持っていた<ref name="義井(1984)39">[[#義井(1984)|義井(1984)]]、p.39</ref>。陸軍大演習の際、日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した。」と説明したり、ベルリンを散歩の際、居合わせた日本人留学生に声をかけて激励したこともある<ref>[[斎藤茂吉]]『ウィルヘルム2世』斎藤茂吉全集第18巻 岩波書店</ref>。[[日露戦争]]に際してはアメリカ合衆国の[[セオドア・ルーズベルト]]大統領に、日露戦争を黄白色人種戦争と看做すの立場から日本の脅威を訴え<ref>[[#飯倉(2013)|飯倉(2013)]]、pp.133-134</ref>、日露戦争の講和条約である[[ポーツマス条約]]直後には、アメリカ合衆国の[[世論]]に対してロシアに勝利した日本を黄禍だと主張している<ref>[[#飯倉(2013)|飯倉(2013)]]、pp.142-143</ref>。
 
一方、イギリスについては「ドイツはキリスト教国であるが、イギリスは反キリスト教的な[[自由主義]]の国」と酷評している。また、イギリスが[[フリーメーソン]]と[[ユダヤ人]]に経済的に支配されていると信じており、2度の世界大戦も彼らが引き起したと主張していた。
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*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|date=1986年(昭和61年)|title=ワイマル共和国史 III 1926~1931|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831503855|ref=アイク(1986)}}
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|date=1999年(平成11年)|title=ビスマルク伝 8|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508867|ref=アイク(1999,8)}}
* {{Cite book|和書|author=[[飯倉章]] |translator= |editor= |others= |chapter= |title=黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか |series=[[中公新書]]2210 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=発行 |date=2013年3月25日 |publisher=[[中央公論新社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-12-102210-3 |volume= |page= |pages= |url= |ref=飯倉(2013)}}
*{{Cite book|和書|author=[[飯田芳弘]]|date=1999年(平成11年)|title=指導者なきドイツ帝国―ヴィルヘルム期ライヒ政治の変容と隘路|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130360968|ref=飯田(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ウィーラー=ベネット]]|translator=[[木原健男]]|date=1970年|title=ヒンデンブルクからヒトラーへ :ナチス第三帝国への道|publisher=[[東邦出版]]|asin=B000J9FIVS|ref=ベネット(1970)}}