「荒勢永英」の版間の差分

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頭蓋骨抉る (会話 | 投稿記録)
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==来歴==
実家は農家。[[高知中学校・高等学校|高知中学校]]在学時より相撲を始め高知高校、[[日本大学]]と相撲部で活躍し、大学23年時に[[全日本学生相撲選手権大会]]3位入賞の活躍を果たした。大学卒業を目前にした[[1972年]]1月に花籠部屋へ入門し同月、[[幕下付出]]で[[初土俵]]を踏んだ。当初の[[四股名]]は本名の「荒瀬」。以来一度の[[負け越し]]も無く、[[1973年]]7月場所に24歳で入幕を果たした。大学時代の2年先輩でもある[[横綱]]・[[輪島大士|輪島]]の[[横綱土俵入り|土俵入り]]で[[露払い]]を務め、[[太刀持ち]]を務めた日大(柔道部)中退の[[魁傑將晃|魁傑]]とともに「日大トリオの土俵入り」と話題になった。
 
右四つからの激しい[[寄り (相撲)#がぶり寄り|がぶり寄り]]が特徴で、もみ上げも個性的で[[いごっそう]]を連想させる人気力士の1人であった。しかし横綱・[[北の湖敏満|北の湖]]に弱く、27連敗を記録した。また、[[立合い]]を合わせるのが下手で、「[[待った]]」の常連としてよく指弾された。[[1975年]]3月場所で[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]を受賞した時には、立合いの悪さから受賞を見送るべきだという意見が三賞選考委員会の席上で出た。また[[1976年]]7月場所8日目に[[若乃花幹士 (2代)|若三杉]](のちの横綱・2代若乃花)と対戦した時は「待った」を8回も繰り返し、[[勝負審判]]が土俵上に上がって両力士を注意する事態も起きた。その他、[[これより三役]]のそろい踏みの時にも西方の扇の要の位置にあって後ろが見えなかったためか、あっさりと3回四股を踏んだ後振り返ると後方の力士はまだ2回目の四股にかかっていたということもあった。