「ロンドン海軍軍縮会議」の版間の差分

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日本の内閣としては、提案した7割に近い6.975割という妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であった<ref>将来の日米戦争での決戦は日本近海での艦隊決戦になると日米とも予想していたが、日本側は太平洋を横断してくるアメリカ艦隊を途中で潜水艦・空母機動部隊・補助艦艇によって攻撃し(『漸減邀撃』)、決戦海域に到着するまでに十分にアメリカ艦隊の戦力を削るという対抗策を取ろうとした。艦隊決戦で日本艦隊が勝利できるほどにアメリカ艦隊の戦力を削るためには、日本側の補助艦艇の対米比率が7割は必要というのが日米で共通した見解であった。このため、日本側は7割を主張し、アメリカ側は6割を主張した。[[帝国国防方針]](日本の戦争計画)、および[[オレンジ計画]](アメリカの戦争計画)も参照。</ref>。当時の日米における工業力の差が桁違いであったことを考慮すると、対米7割弱という条件は破格に近いものであったが、軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた。
 
[[1930年]][[10月2日]]に[[ロンドン海軍軍縮条約]]の[[批准]]にはこぎつけたものの、海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「[[条約派]]」とこれに反対する「[[艦隊派]]」という対立構造が生まれた。[[濱口雄幸|濱口]]のきわめて強引な手法に、海軍の神様的存在だった[[東郷平八郎]]元帥が政党内閣を信用しなくなる。それまで政党内閣との協調を基本としてきた海軍の反発が、その後の[[五・一五事件]]などを生む<ref>激動期の政治試される指導力(下)京都大学教授伊藤之雄氏(経済教室):日本経済新聞 2011年9月15日</ref>
 
また、マスコミや野党も、希望量を達成できずに条約に調印してしまったこと、フランス等のように日本も条約を部分参加にとどめなかったことへのに対し、一部マスコミや野党から批判が噴出した。野党・[[立憲政友会]]の[[犬養毅]]や[[鳩山一郎]]らや[[枢密院 (日本)|枢密院]]は、[[大日本帝国憲法第11条]]の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だとする、いわゆる「'''[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯問題]]'''」を提起した。この時に与野党の政争のために統帥権を持ちだしたことにより、議会は後に統帥権を主張する軍部の独走を押さえられなくなる。
 
世論の反発も激しく、日本政府全権だった[[財部彪]]海軍大将がロンドンから帰国した日の[[東京駅]]や丸の内のオフィス街には多くの群衆が集まり、全権を罵倒するとともに「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部。速やかに自決して罪を謝せ」「売国奴財部を葬れ」などと書かれたチラシがばらまかれた。
 
新造艦艇を条約の制限内に納めるための無理な設計の結果、日米では重心があがったトップヘビー構造の艦が建造され、日本国内で[[友鶴事件]]・[[第四艦隊事件]]を引き起こす原因となる。