「パナマの歴史」の版間の差分

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1808年に、[[フランス帝国]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を[[スペイン王]]ホセ1世に据えると、それに反発する住民暴動から、[[スペイン独立戦争]]が勃発。インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立のための戦いが始まった。[[ベネスエラ]]の[[カラカス]]出身の[[解放者]][[シモン・ボリーバル]]は不屈の闘争の末に、1819年8月にボヤカの戦いに勝利してヌエバ・グラナダを解放すると、1821年にはカラボボの戦いに勝利し、ベネスエラの解放を不動のものにした。同年11月28日、パナマはボリーバルの主催する[[大コロンビア]]の一部としてスペインから独立した。1826年にはボリーバルの呼びかけで[[米州]]の相互防衛と将来的な統一を訴える[[パナマ会議]]がパナマ市で開催されたが、この会議は失敗に終わった。コロンビアによる支配への不満から反乱が発生するようになった。
 
1830年にボリーバルが失脚してベネスエラの[[ホセ・アンオニオ・パエス]]がベネスエラ共和国のグラン・コロンビアから独立を宣言すると、それまで「南部地区」と呼ばれていた[[キト]]と[[グアヤキル]]と[[クエンカ (エクアドル)|クエンカ]]も[[エクアドル|エクアドル共和国]]として独立を宣言し、最後に残ったヌエバ・グラナダも[[ラファエル・ウルダネータ]]将軍が1831年に失脚したために、[[ヌエバ・グラナダ共和国]]のグラン・コロンビアからの独立を宣言し、パナマもヌエバ・グラナダの一部として独立した。こうしてボリーバルの目指した[[ラテンアメリカ]]統合の夢と共にグラン・コロンビアは崩壊し、解放者は敗北して死んだ。
 
[[1846年]]、[[アメリカ合衆国]]は、パナマにおける[[ヌエバ・グラナダ共和国]](ほぼ現在の[[コロンビア|コロンビア共和国]]に相当)の主権を承認することで[[パナマ地峡]]の通行権を獲得した。アメリカ合衆国が[[米墨戦争]]で[[メキシコ]]から北半分の領土を奪い、1848年にカリフォルニアで[[ゴールド・ラッシュ]]が始まった[[1840年代]]以降、アメリカ合衆国東部の人々は[[オレゴン州|オレゴン]]、[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]等のアメリカ合衆国西岸への移住にパナマ地峡を利用し、交通の要衝としてのパナマの重要性は高まった。[[1848年]]、アメリカ合衆国の会社が、[[パナマ・コロン地峡横断鉄道]]の敷設権を獲得した。[[1850年]]に着工したパナマ・コロン鉄道敷設工事は、[[1855年]]に完了した。