「力への意志」の版間の差分

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力への意志は'''権力への意志'''と訳されることもあるが、力への意志の「力」は、人間が他者を支配するためのいわゆる権力のみを指すのではない。また「意志」は、個人の中に主体的に起きる感情のみを指すのではない<ref>貫成人 『真理の哲学』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、第1章§2。</ref>。力への意志は自然現象を含めたあらゆる物事のなかでせめぎあっている<ref>貫成人 『図解雑学 哲学』 ナツメ社、2004年、p.134。</ref>。力への意志の拮抗が、あらゆる物事の形、配置、運動を決めている。つまり、真理は不変の[[ロゴス]]として存在するものではなく、力への意志によりその都度産み出されていくものなのである。この思想は[[ジル・ドゥルーズ]]の差異の哲学に受け継がれた<ref>『わかりたいあなたのための現代思想・入門』 別冊宝島44、宝島社、1984年、pp.22-23。</ref>。
 
また[[永井均]]はこの概念を指して、「力への意志」というよりは「力=意志説」と呼んだほうが良いと書いている。<ref>永井均『ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)』河出書房新社、1997年、p.142</ref>
 
ニーチェは、[[キリスト教]]主義、ルサンチマン的価値評価、[[形而上学]]的価値といったロゴス的なものは、「現にここにある生」から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、力への意志によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的存在であるとする。だが、そういった認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得することを意味する。それは[[超人]]へ至る条件でもある<ref name="nietzsche_sisou">[[フリードリヒ・ニーチェ#思想]]を参照。</ref>。
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力への意志という概念は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に利用されたが、ニーチェの哲学を曲解したものとする見方がある<ref name="nietzsche_sisou" />。
 
==著書 ==
ニーチェは『力への意志』を著すために多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これらの草稿が妹の[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ|エリーザベト]]によって編纂され、同名の著書として出版された<ref>日本語訳: ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。</ref>。
ただし、力への意志という言葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場し、その概念をうかがい知ることができる。このことは、「力への意志」という主題がニーチェにとって著作としてまとまったものになるほど成長することはついになかったということであり、言ってみれば、ニーチェはその偽悪的なポーズにも関わらず、彼のファナチックな読者たちよりもずっと慎重な性格だったということである。