「八柱国」の版間の差分

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== 八柱国を巡る問題 ==
上記の八柱国の序列は『周書』巻16及び『[[大唐六典]]』巻2(尚書吏部・司勲郎中条)に基づくものである。ところが、そのうちの1人である李虎の順位だけが諸書によって序列が異なっているのである。すなわち、『[[通典]]』巻34(職官一六・勲官条)・『[[文献通考]]』巻64(職官一八・勲官条)では元欣の下(第3位)、『[[資治通鑑]]』巻163(梁・簡文帝大宝元年条)では李弼の下(第4位)に置かれている。これについては前島佳孝の研究があり、唐の時代に編纂された『周書』の段階において李虎すなわち[[唐]]の追尊皇帝・太祖を皇祖と位置づけ他の人臣の下に置かれないように史料操作が行われたとみる(北周の建国者である宇文泰の第1位を動かせない)。前島は八柱国のうち、李虎・侯莫陳崇以外の6名(宇文泰を含む)が官制改革時に[[六卿]]に任じられた事実に着目し、少師であった李虎は少傅であった侯莫陳崇よりは上位であるが、六卿よりは下位、すなわち第7位が正しい順位であったと推定している。
 
また、山下将司<ref>「唐初における『貞観氏族志』の編纂と[八柱国家]の誕生」(『史学雑誌』第111巻2号(2002年))</ref>は、「八柱国」の語は唐代の創作とする説を出している。これに対して、前島佳孝は十二将軍の1人に楊忠([[隋]]の追尊皇帝・太祖)がいることを指摘し、隋の時代には皇室(十二将軍家)よりも上位であった八柱国については触れられない社会状況にあった可能性を指摘して山下説の問題点を指摘する一方で、[[宇文護]]と[[元子孝]]が西魏段階で柱国大将軍に任じられているとそれぞれの列伝<ref>元子孝は祖父の[[拓跋新成]]の伝(『北史』巻17 列伝第5)に付記</ref>から判断できること、八柱国の制度が成立する直前([[547年]])に没した[[若干恵]]およびその子孫が北周において八柱国と同等の待遇を受けていること<ref>若干恵(徐国公)は北周成立後の[[564年]]に八柱国の李虎と同時に国公の追贈と子孫への即時襲封の特権を得ており、若干恵が柱国大将軍と同格とみなされ、もし数年長生きしていたら柱国大将軍の1人になっていた可能性が高い。なお、この時に李虎の唐国公の襲封が許されたのが李虎の嫡子で李淵の父である[[李昞]]である。</ref>、北周期に柱国大将軍になった家の中にも同様な家が存在すること<ref>『旧唐書』[[竇威]]伝において、李虎の孫である李淵(唐の高祖)が皇帝に即位後、竇威に対して「むかし北周に八柱国があり、わたしと君の家がそうである。」と語る場面があるが、竇威の父・[[竇熾]]が柱国大将軍になったのは北周成立後の[[560年]]のことである。</ref>、そして八柱国のうち元欣と李虎は北周成立以前に没し、宇文泰も没してその後継者は皇帝に即位し、建国直後に趙貴・独孤信が粛清されて北周初期にには八柱国のうち3名しか残っていなかった事実を指摘して、8名の柱国大将軍を代表される“八柱国グループ”とでも呼ぶべき門閥集団が存在していたとしても、「8名の定員」などの制度としての八柱国は存在しなかった可能性は高いとして、山下説を高く評価している。
 
== 脚注 ==