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'''特攻兵器'''(とっこうへいき)とは、[[第二次世界大戦]]末期の[[日本軍]]で使用された戦死を前提とする[[特攻]]を目的として造られた、もしくは改装された[[兵器]]である。
 
== 概要 ==
[[ファイル:KaitenType1.JPG|thumb|250px|[[靖国神社]]の[[軍事博物館]]の[[遊就館]]の[[回天]]一型]]
'''特攻兵器'''(とっこうへいき)とは、[[第二次世界大戦]]末期の[[日本軍]]で使用された戦死を前提とする[[特攻]]を目的として造られた発明、もしくは既存の兵器を改装された[[兵器]]である。
日本軍の特攻兵器には水中、水上、空中と戦死を前提とする体当たり、自爆といった戦法のため開発された様々な兵器である。日本の他に[[ドイツ]]においても特攻兵器が開発されている([[ゾンダーコマンド・エルベ]]を参照)。
 
日本軍の特攻兵器に水中水上、空中劣勢なった[[太平洋戦争]]末期に戦局を打開するために戦死を前提とする体当たり攻撃、自爆といった戦法のため攻撃を水中、空中で行う特攻兵器を開発され様々な兵器である。日本の他に[[ドイツ]]においても特攻兵器開発されている([[ゾンダーコマンド・エルベ]]を参照)。
追いつめられた戦局を打開するために開発された。既存の兵器を改修したものや専用に開発されたものがある。使用によって死を伴う兵器のことで生還手段が残されたものは含まない。誘導装置の代わりに人間が操縦して目標へ向かうことが出来る。
 
== 歴史 ==
{{Main2|各特攻兵器の詳細については [[#特攻兵器リスト]] を、特攻成立の経緯については「[[特別攻撃隊]]」を}}
=== 日本海軍 ===
海軍では1943年にすでに一部で特攻兵器に関する声が上がっていた。
 
特攻兵器は1943年にすでに一部で声が上がっていた。日本海軍で7月ごろ頃、[[城英一郎]]大佐が飛行機による肉弾攻撃を行う部隊を専門家の協力を得て研究していた。その中に特殊攻撃機(体当たり航空機)という専用特攻兵器の構想もあり、目標となる艦種ごとに具体的な戦法と効果をまとめていた。この構想は当時[[大西瀧治郎]]中将によって見送られた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322-324</ref>。また、[[黒島亀人]]は連合艦隊主席参謀時代にモーターボートによる特攻の構想を軍令部に語っている。黒島は軍令部二部部長に就任すると1943年8月11日に必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322</ref>。
 
日本海軍の特攻兵器開発は1944年2月の[[マーシャル諸島|マーシャル]]の陥落、[[トラック島空襲]]をきっかけとして<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327頁</ref>、[[黒木博司]]大尉らから中央へ要望されていた[[人間魚雷]]の試作命令(1944年2月26日)から始まる<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326頁</ref>はじめ脱出装置予定され開発が始まったが結局実現はしていかった
特攻兵器は1943年にすでに一部で声が上がっていた。日本海軍で7月ごろ[[城英一郎]]大佐が飛行機による肉弾攻撃を行う部隊を専門家の協力を得て研究した。その中に特殊攻撃機(体当たり航空機)という専用特攻兵器の構想もあり、目標となる艦種ごとに具体的な戦法と効果をまとめていた。この構想は当時[[大西瀧治郎]]中将によって見送られた。<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322-324</ref>
日本海軍の[[黒島亀人]]連合艦隊主席参謀はモーターボートによる特攻の構想を軍令部に語っていた。黒島は軍令部二部部長に就任すると1943年8月11日には必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した。<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322</ref>
 
1944年4月4日[[黒島亀人]]軍令部二部長が「作戦上急速実現を要望する兵力」を提出する。体当たり戦闘機、装甲爆破艇([[震洋]])、大威力魚雷([[回天]])の特攻兵器を含んだ提案であった。軍令部はそれを検討した後、[[震洋]]、[[回天]]、[[海龍]]の水中特攻兵器の緊急実験を海軍省側に要望した。[[艦政本部]]は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327</ref>。
日本海軍の特攻兵器開発は1944年2月の[[マーシャル諸島|マーシャル]]の陥落、[[トラック島空襲]]をきっかけとして<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327頁</ref>、[[黒木博司]]大尉らから中央へ要望された[[人間魚雷]]の試作命令(1944年2月26日)から始まる。<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326頁</ref>はじめ脱出装置が予定されていたが結局実現はしていない。
 
1944年6月25日元帥会議で[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。陸軍の[[参謀本部]]総長[[東條英機]]海軍の[[軍令部]]総長[[嶋田繁太郎]]はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の[[嶋田繁太郎]]軍令部総長海軍省に奇襲兵器促進班を設け実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日[[大森仙太郎]]が海軍特攻部長発令される(正式就任は9月13日)<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p34-39</ref>
日本陸軍の特攻開発は1944年春陸軍中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見が一致し、四式重爆撃機と99式双発軽爆撃機を改修して特攻兵器にすることに決定する<ref>戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁</ref>
 
1944年47421日本海軍において[[黒島亀人]]軍令部二部により提出された「作戦上急速実現を要望する兵力」で、体当たり戦闘機、装甲爆破艇([[震洋嶋田繁太郎]])、大威力魚雷(より連合艦隊司令長官[[回天豊田副武]])という特攻兵器を含んだ提案へ発令された。軍令部で検討後軍省へ緊急実験を要望し、[[艦政本部]]は仮名称を付して担当主務部定め指四三一号に特殊緊急実験を開始した。特攻奇襲兵器としては、[[震洋]]、[[回天]]、[[海龍]]」の採用含ま記載されてい<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326p212-327216</ref>。
 
1944年8月[[大田正一]]少尉ら1081航空隊の志願・要望があり、航空特攻兵器である[[桜花 (航空機)|桜花]]の試作研究が決定する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p331-333</ref>。
1944年5月日本陸軍は体当たり爆弾[[桜弾]]の開発のため第三陸軍航空技術研究所に特別研究班を設け[[正木博]]所長が統括した。<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給459-460頁</ref>
 
1944年10月25日、日本海軍現地零戦を簡単な改修を施した[[零式艦上戦闘機]]を特攻兵器として利用し神風特攻隊が開始され日本初の特攻である[[神風特別攻撃隊]]が行われた。
1944年6月25日元帥会議で[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた。会議後[[嶋田繁太郎]]軍令部総長は海軍省に奇襲兵器促進班を設け実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日[[大森仙太郎]]が海軍特攻部長へ発令される(正式就任は9月13日)。<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p34-39</ref>
 
=== 日本陸軍 ===
日本陸軍はサイパン島失陥直後の1944年7月7日に陸軍参謀本部以下関係部門の幹部将校が大本営近くの市ヶ谷で開いた秘密会議で体当たり攻撃の導入論が強まり、特攻兵器の開発が促進される。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修に着手する<ref>『特攻隊振武寮』p.55</ref>。
日本陸軍の特攻開発1944年春陸軍中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見が一致し、四式重爆撃機と99式双発軽爆撃機を改修して特攻兵器にすること決定するした<ref>戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁</ref>
 
1944年5月日本陸軍は体当たり爆弾[[桜弾]]の開発のため第三陸軍航空技術研究所に特別研究班を設け[[正木博]]所長が統括した<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給459-460頁</ref>
1944年7月21日軍令部総長[[嶋田繁太郎]]より連合艦隊司令長官[[豊田副武]]へ発令された大海指四三一号に特殊奇襲兵器([[特攻兵器]])の採用が含まれる。<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p212-216</ref>
 
1944年8625本海軍元帥会議で[[大田正一伏見宮博恭王]]少尉より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければな1081ない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なも志願・を考案し迅速に使用するを望で人間爆弾する」と発言がある。陸軍の[[桜花 (航空参謀本部]]総長[[東條英)|桜花]]、海軍開発も決定し[[軍令部]]総長[[嶋田繁太郎]]はすでに考案中であると答え<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p331p34-33339</ref>
 
日本陸軍はサイパン島失陥直後の1944年7月7日陸軍参謀本部以下関係部門の幹部将校が大本営近くの市ヶ谷で開いた秘密会議で体当たり攻撃の導入論が強まり、特攻兵器の開発が促進され。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修に着手する<ref>『特攻隊振武寮』p.55</ref>。
1944年9月5日日本軍は陸海技術運用委員会を設置し陸海民の科学技術の一体化を図る。特攻兵器[[桜弾]]が含まれていた<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給457頁</ref>。
 
1944年9月5日日本軍は陸海技術運用委員会を設置し陸海民の科学技術の一体化を図る。特攻兵器ため、陸海技術運用委員会を設置され、研究の一つに[[桜弾]]含まれていた<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給457頁</ref>。
1944年10月25日、日本海軍で零戦を簡単な改修を施して特攻兵器として利用し神風特攻隊が開始され日本軍初の特攻が行われた。
 
1944年11月13日、日本陸軍で特攻兵器に改修された四式重爆撃機による富嶽隊が日本陸軍初の特攻を行う。
 
== 運用 ==