「アウグスト・ベーベル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m →‎人物: リンク修正 using AWB
6行目:
1860年[[ライプツィヒ]]に移り、[[フェルディナント・ラッサール]]との出会いによって[[社会主義]]に目覚め、[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]に感化され、[[マルクス主義|マルクス主義者]]となる。その後[[ライプツィヒ労働者教育協会]]に入り、理論的指導者として反プロイセン闘争を展開した。やがてリープクネヒトと共に1866年に[[ザクセン人民党]]を創設し、翌年には北ドイツ連邦議会議員選挙に出馬し当選、1868年に[[アイゼナハ]]でドイツ社会民主党を創立、1871年からはドイツ帝国の国会議員となった。1870年、[[普仏戦争]]の最中に軍事公債の発行に反対したため、大逆罪・不敬罪によりリープクネヒトとともに逮捕、禁固刑に処される。
 
1875年、[[全ドイツ労働者協会]](ADAV、ラサール派)と[[社会民主労働者党]](SDAP、アイゼナハ派)が[[ゴータ]]大会で合同し、[[ドイツ社会主義労働者党]](SAPD)が成立した。1890年、[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]の党大会で[[ドイツ社会民主党]]に改名。1891年、[[フリードリヒ・エンゲルス]]、[[カール・カウツキー]]らとともに[[エルフルト綱領]]の確立に尽力。1890年代末、党内で[[修正主義]]論争が起こるが、1903年のドレスデン党大会で、ベーベル、カール・カウツキーらのいわゆるマルクス主義中間派が主導権を確立。
 
1893年から死に至るまでドイツ社会民主党(SPD)の党幹部会議長を務め、[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]の議員も務めた。また、[[第二インターナショナル]]においても指導的役割を果たした。