「カンポ・フォルミオ条約」の版間の差分

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== 経緯 ==
[[イタリア]]北東部の都市[[ウーディネ]]の西郊外にあり、るカンポ・フォルミオ村(現在[[カンポフォルミド]]と呼ばれるの宿屋で、[[フランス第一共和政|フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の代表であるルートヴィヒ・フォン・コベンツルによって条約は調印された。
 
条約は5ヶ月の交渉の末に調印された。 それは基本的に1797年4月の[[レオーベンの和約]]ですでに合意されたものであったが、交渉は多くの理由のために両当事者によって引き延ばされた。 協議期間の間にフランスは、オーストリアが期待していた9月に起こる[[王党派]]の[[クーデター]]を鎮圧する必要があった。伝記作者[[ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ|ブーリエンヌ]]によると、総裁政府によってその野心を疑われていたナポレオンは[[パリ]]に帰還して事態を収拾する必要があり、さらに予想より早く寒気が訪れたため軍隊の移動ができなくなることを恐れ、自分でも不満である条約を[[総裁政府]]の許可を待たずに締結させたという。