「毛利敬親」の版間の差分

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[[文政]]2年([[1819年]])2月10日、[[毛利親著]]の長子で世襲家老家[[長州藩の家臣団#一門八家|一門八家]]の一つである[[安芸福原氏|福原氏]]当主・[[福原房純]]の養嗣子である[[毛利斉元|福原房昌(のちの毛利斉元)]]の長子として出生。母は側室・原田氏。同年の8月28日に父の房昌は藩主家毛利氏に戻り、9月10日に[[毛利斉煕]]の養子となって毛利教元に改名、11月11日に斉元と改名して、後に第11代藩主となる。幼名、猶之進。のちに、教元を名乗っていた父から[[偏諱]]を与えられて'''教明'''(のりあき)と名乗る。
 
[[天保]]7年(1836年)6月12日、敬親は[[萩城]]下の[[阿武川]]の分流[[橋本川 (山口県)|橋本川]]川岸の南苑邸にいたとき、俗に「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込み、見分けがつかないほど荒廃<!--×大破→艦船用語-->したために、御客屋に避難した。
 
=== 家督相続 ===