「中央アメリカ連邦共和国」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
37行目:
|元首等年代始1 = [[1825年]]
|元首等年代終1 = [[1829年]]
|元首等氏名1 =
|元首等年代始2 = 1829年
|元首等年代終2 = [[1830年]]
69行目:
1808年に[[フランス帝国]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]がスペインに侵攻し、ナポレオンは[[ボルボン朝]]の[[フェルナンド7世]]を廃位して兄の[[ジョセフ・ボナパルト]]を[[スペイン王]]に据えた。これに対する民衆暴動が契機となって[[スペイン独立戦争]]が勃発。イスパノアメリカのインディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、フェルナンド7世への忠誠を唱えて[[クリオージョ]]による[[ペニンスラール]]から権力の奪取を図り、各地で自治運動が繰り広げられた。中央アメリカでもこのような自治への動きは存在したが、結局広範な運動にはならず、独立運動にも繋がらなかった。
1820年にスペイン本国で[[リエゴ革命]]が起こり、自由主義憲法が復活すると、かつて[[ミゲル・イダルゴ]]や[[ホセ・マリア・モレーロス]]の反乱を鎮圧した[[メヒコ市]]の王党派や保守派のクリオージョが反自由主義憲法を唱えて独立の動きが進み、1821年に[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]を首班として独立を達成した。これを受けて中央アメリカでも保守派のクリオージョによって独立運動が進み、同年グアテマラ総監の
1822年にイトゥルビデはこうして独立した中央アメリカをメキシコに併合し、皇帝に即位して[[メキシコ帝国]]の成立を宣言した。しかし、1823年にイトゥルビデが失脚すると、中央アメリカの[[チアパス]]を除いた旧グアテマラ総監領だった地域は改めて独立を宣言し、[[中央アメリカ連合州]]が成立した。1824年1月には憲法が制定され、5州からなる中央アメリカ連邦が成立した。
1825年にエルサルバドルの自由主義者
[[ファイル:FMorazan.jpg|thumb|right|220px|[[フランシスコ・モラサン]]]]
86行目:
各共和国が独立した後はエル・サルバドルが中心となって再統合を計り、最初の再統合の試みは、[[1842年]]に前連邦大統領[[フランシスコ・モラサン]]によって行われた。しかしモラサンはただちに捕らえられ処刑された。<!-- The abortive attempt aimed to restore the union as the Confederation of Central America and included El Salvador, Guatemala (which withdrew early), Honduras, and Nicaragua).-->この試みは1844年まで続いた。
二度目の再統合の試みは、[[1852年]]の10月から11月まで、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアによる連邦(Federacion de Centro America)の結成を目指して行われた。[[1880年代]]には、グアテマラの大統領
最後の試みは20世紀初頭、[[1921年]]から[[1922年]]にかけて行われた。これはエルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラスによる、連邦の結成であった。このときは再統合の試みのなかで、唯一、各構成国からの代表による連邦大統領の選挙が行われるまでにいたった。
|