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Tokugawa (会話 | 投稿記録)
→‎明軍の参戦: 宣祖2月23日等、少し加筆
Tokugawa (会話 | 投稿記録)
→‎全羅道・忠清道掃討: 鳴梁海戦,朝鮮水軍の後退と日本水軍の前進
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:鳴梁海戦では日本水軍の内、鳴梁海峡に突入した関船部隊が、朝鮮水軍の迎撃により打撃を被った。だが、この戦いに参加しなかった主力艦である安宅船や小早船は何の損害もなく温存されており、日本水軍は依然として有力な戦力を有していた。沿岸部を制圧中の日本側地上軍の影響も加わり、李舜臣は全羅道北端まで逃走し、拠点である全羅右水営を失った挙句、日本軍の「全羅道成敗」を阻止することはできなかった。もちろん、この海戦により朝鮮水軍が制海権を奪い返したなどということはないし、戦力の劣勢状況を挽回させたわけでもない。日本軍の補給を遮断するといったこともない。この海戦は戦闘中の朝鮮水軍が日本水軍に打撃を与える局面だけを切り取って見たなら朝鮮水軍の勝利のように見える。しかし、戦略的観点から見ると水陸の日本軍が朝鮮水軍を駆逐し、作戦目標であった「全羅道成敗」を達成した戦いである。
 
::※鳴梁海戦は朝鮮水軍が日本水軍を撃退し、全羅道侵攻を頓挫させた戦いと言われることがあるが事実ではない。実際のところ戦闘後、前進したのは日本水軍であり、後退したのは朝鮮水軍である。そして全羅道西岸海上に進出した日本水軍は海上の島々に至るまで掃討している。このことは朝鮮王朝の記録である宣祖実録でも確認することができる。(詳細は[http://tokugawa-tokugawa.blogspot.com/2011/10/blog-post.html tokugawaブログ: 『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠]及び,[http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html tokugawaブログ: 鳴梁海戦日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』],[http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html tokugawaブログ: 鳴梁海戦,朝鮮水軍の後退と日本水軍の前進]を参照のこと。)
 
::※鳴梁海戦後、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍の補給を断ったといわれることがるが、そのようなことはない。戦争の終結まで朝鮮水軍が対馬と釜山を結ぶ日本軍の海上補給路を攻撃することは一度もなく、それどころか近づくことさえもなかった。(詳細は[http://tokugawa-tokugawa.blogspot.com/2011/09/blog-post_9643.html tokugawaブログ: 李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)]を参照のこと。)