「秋月悌次郎」の版間の差分

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藩主・[[松平容保]]の側近として仕え、[[文久]]2年([[1862年]])に容保が幕府から[[京都守護職]]に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。薩摩藩士・[[高崎正風]]らと計画を練り、会津藩と[[薩摩藩]]が結んだ宮中クーデターである[[八月十八日の政変]]を起こし、藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。後に佐幕派の反対を受け、[[慶応]]元年([[1865年]])には左遷されて[[蝦夷地]]代官となる。
 
その後に召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みるが失敗。[[戊辰戦争]]では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には[[手代木勝任]]とともに[[若松城|会津若松城]]を脱出し[[米沢藩]]へ赴き、その協力を得て[[官軍]]首脳へ降伏を申し出た。また[[小川亮 (陸軍軍人)|小川亮]]、[[山川健次郎]]の2人の優秀な青年を、面識ある長州藩士の[[奥平謙輔]]に預けた。
 
会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり[[猪苗代町|猪苗代]]において謹慎し、[[明治]]元年([[1868年]])には[[会津戦争]]の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年([[1872年]])に特赦によって赦免される。同年、新政府に[[左院]]省議として出仕し、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]([[熊本大学]]の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では[[小泉八雲]]と同僚であった。