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==== 日本における学童疎開 ====
写真集や、<ref>[逸見:親もとを離れて2003年]</ref><ref>[逸見:ひもじさに耐える2003年]</ref><ref>[逸見:絵日記にみる疎開生活2003年</ref>その他報告は数多い。沖縄の学童疎開では、[[対馬丸]]事件で犠牲者がでたが、与那原国民学校の学童と引率者は1944年8月15日、学校を出発、長崎港に到着し、熊本県日奈久町の温泉旅館に移動した。日奈久国民学校で授業を受けた。1945年6月再疎開となった。1946年10月に帰宅した。第2班は、室戸丸で鹿児島港をへて、熊本県湯浦町に到着した。<ref>与那原学童疎開疎開史編集委員会[1995:24-27,298-299]</ref>
====日本の学童疎開の歴史====
<ref>逸見[2003-1-pp10-18]</ref>
*杉山尚医師は宮城県玉造郡鳴子町へ疎開した3795人の健康状態を調査した。時期は6か月後である。一人が亡くなり、のべ695人は結核性疾患、呼吸器性疾患、発熱、頭痛、胃腸疾患、黄疸、[[ジフテリア]]に罹患し、158名は病気を理由に集団疎開を取りやめた。食糧の量的質的不足が原因という。
*1945年3月9日の閣議で、集団疎開を1年以上継続することを決めた。8月16日に東京都は疎開先の教育を継続すると表明した。
*集団疎開児の大部分は1945年11月中に疎開先より引き揚げた。沖縄県から九州に集団疎開した児童は1946年10月、光明国民学校([[東京都立光明特別支援学校]]が長野県から引き揚げたのは1949年5月28日であった。空襲で家族全部が死亡して[[戦災孤児]]となり、引き続き疎開先にとどまった子供もすくなくなかった。
 
====疎開計画(1944年7月)====
日本において当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。[[空襲]]により[[火災]]が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、[[防火帯|防火地帯]]([[防空緑地]]・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。跡地は、人々の避難先や復旧時の[[ゴミ]]・資材置き場として役に立ったが、投下された[[焼夷弾]]の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。
 
一部の地域では「[[爆弾]]が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去する事も行われた。都市空襲の場合、投下された焼夷弾に対しては有効であったと思われる屋根を貫通した後に天井板で止まり発火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、この場合薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。
 
建物疎開にあたっては、[[行政|行政機関]]がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に破壊が行なわ撤去されたため、当時は「強制疎開」とよばれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「[[政治]]的助言」が大きく影響し、[[部落問題|被差別部落]]に対する[[偏見]]や、[[個人]]的[[感情]]から対象に含められたと考えられるものも存在する。
 
建物疎開は終戦直前まで行われており、[[本土決戦]]に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全国で約61万戸の建物が除却された。また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に関しては買収形態のものと[[借地]]形態のものの両方が存在した<ref name="No1" /><ref name="No2">越澤明:東京都市計画物語 第10章 防空と建物疎開、ちくま学芸文庫、2001.</ref>。建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。瓦礫の撤去に携わったのは主に[[国民学校]]高等科(12歳~14歳)の生徒([[授業]]の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「[[勤労奉仕隊]]」、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などであった。[[広島市への原子爆弾投下|広島へ原爆が投下]]された当時も広島市内では既に数千人の学童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。当日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。
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