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なお、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じ「女子の徹底した独立」を唱える[[与謝野晶子]]、社会主義者の[[山川菊栄]]らの批判に対し、平塚らいてうと共に激しく反駁、[[母性保護論争]]と呼ばれる論戦を展開した。
 
== 業績 ==
=== 評論家 ===
明治39年、夫の嘉吉が開いた「山田外国語塾」には大杉栄がおり、後に平塚らいてう、市川房枝、伊藤野枝、吉屋信子らが集まった。
 わかは、明治四十四年に創刊された雑誌「青鞜」の大正2年11月号に南アフリカの女性思想家オリブ・シュライネルの「若き愛と智の自覚」(三つの夢)の翻訳エッセイをのせた。
 これを期に青鞜社のメンバーの一人となった山田わかは、以降「青鞜」誌上へ、シュライネルの翻訳文を積極的に投稿した。その後もアメリカの社会学者ウォードの論文「女子の教育について」やスウェーデンの女流思想家エレン・ケイの「児童の世紀」といった翻訳文をのせる他「感想・評論」文ものせるようになった。
 「青鞜」誌上に多様な文章活動をはじめた山田わかは、次第に新進の女流評論家として認識されるようになっていった。
 山田わかが女流評論家として世にあまねくしられる存在になったのは「東京朝日新聞」の「女性相談」欄、回答者となり大衆の心の奥底にふれた答えを返すことによるものであったことは、すでに記したとおりである。
 雑誌「青鞜」は山田わかの参加により、それまでの“文学誌的傾向”から次第に“女性解放誌的傾向”に移行してき、やがて日本最初の女性解放運動の基礎となる「新婦人協会」を誕生させることとなって行く。
 
=== 母性保護運動 ===
大正5年2月に「青鞜」が廃刊となり、それまでの「青鞜」メンバーはある者は母性保護運動に、ある者は婦人参政権運動に、そしてまたある者は社会主義的婦人運動へとおのおのが自身の主張した方向へとその舵を取っていったのである。
 母性保護論争は大正7年、与謝野晶子、平塚らいてう、山田わか、山川菊栄が参加し、約1年に亘り繰り広げられ、論争は四つ巴となって展開して行った。その争点は「女性の育児と就労は両立できるか」にあり、晶子は両立可能とし、母子に対する国の経済的保護は必要ないとした。らいてう、わかは両立は不可能とし国の保護の必要を訴えた。
 この母性保護論争を発端にわかは昭和9年、母性保護連盟の初代委員長になった。
この母性保護連盟における活動はわかの社会事業への船出となり、委員長就任の翌年、社団法人「母を護るの会」を立ち上げる。
 その後、母子保護法公布(昭和12年)の2年後の昭和14年には困窮母子を支える「幡ヶ谷母子寮」と「幡ヶ谷保育園」を完成させた。
 昭和20年の東京大空襲で、施設も自宅も灰になり、街には浮浪児や売春婦があふれ大きな社会問題になっていた。そんな折、連合軍総司令部は「公娼制度廃止」の方針を示した。これを期にわかは、敗戦2年後の昭和22年、婦人保護施設「幡ヶ谷女子学園」の名で施設を再開した。昭和27年「母を護るの会」の看板が「婦人福祉会」になった後も理事長職にあったが昭和32年9月にその生涯を閉じた。(享年77歳)。
 
 
== その他の活動 ==