「興国」の版間の差分

 
*「興国四年の戦い」(「尾野尻の戦い」)
興国四年、[[豊後国|豊後]]の[[大友氏]]が、[[阿蘇氏]]の本拠であった、隣国[[肥後国|肥後]]の[[矢部郷]]に攻め入った。「興国四年の戦い」または「[[尾野尻の戦い]]」とも呼ばれている。[[阿蘇家]]の家臣は、[[御岳]]にある眺めの良い小高い丘(地元の伝承では[[山城]]があった場所と言われており、[[空濠]]がある。 『[[熊本の中世城址]]』には載っていない)に大友軍を誘導。あらかじめ埋めておいた[[爆薬]]に火をつけ、千人余里の兵を蹴散らしたという。火薬が爆発した響きは、ものすごい音であったという。爆薬のしかけは、[[土呂久鉱山]]の労働者(現、宮崎・[[高千穂町]])を使った。
戦いより二百年余りたち、地元の[[男成]]・[[田所]]の人々が供養のために、[[板碑]]を建てて弔った。これを「[[千人灰塔]]」と呼び、山林に二基建っている。うち1基は、かなり大きいサイズである。
平成13年、地元で郷土史を学んでいる「いきいき大学」と「婦人学級」の生徒が、説明のために二本の標柱を建てた。
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