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katakana=ハングンミンジュダン (ハンミンダン)|
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'''韓国民主党'''(かんこくみんしゅとう)は、[[アメリカ軍政庁|米軍政]]時代から[[大韓民国]]初期にかけて存在した[[保守]][[政党]]である。略して'''韓民党'''(かんみんとう)と呼ばれることも多い。
 
解放([[光復節|光復]])直後の[[1945年]][[9月16日]]にソウルで結成された。
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==概要==
=== 韓民党の中央政界進出 ===
[[呂運亨]]ら朝鮮国内にいた[[左派]]系・[[中道政治|中道]]系の独立運動家たちによって結成されていた[[朝鮮建国準備委員会]](建準)に否定的な立場を採っていた[[民族主義]][[保守]]系勢力が中心となり韓民党は結党されている。結党に際しては[[金性洙]]の[[湖南財閥]]<ref>この時期の朝鮮で唯一の[[民族資本]]と言える存在で、中核の[[京紡|京城紡織]]は戦前既に[[満州]]への進出を果していた。[[東亜日報]]、[[高麗大学校]]なども湖南財閥系である。</ref>など財界の支援があり、建準への対抗から重慶に[[亡命]]していた[[大韓民国臨時政府]](臨政)の支持を打ち出した。さらに米軍政府にも多数の党員を送り込み、米軍政内部で大きな影響力をもった。
 
しかし、臨政派は韓民党やその支持母体に[[親日派]]が多いことから、やがて両者は対立する。[[盟|国連]]による[[朝鮮半島]]の信託統治が提案されると両者は共に反対の姿勢を示すが、韓民党は他方では米軍政と協力し、臨政派による過激な反対運動を非難した。さらに、臨政派が左派との合作([[左右合作運動]])を始めると、これに反発した<ref>左右合作委員会は土地の没収を伴う土地改革や重要産業の国有化を掲げており、資産家の支持を得ていた韓民党にとっては支持しがたいものがあった。</ref>。そのような状況の中で韓民党は孤立を深め、[[李承晩]]に接近していく。
 
その後、アメリカ軍政の仲介によって李承晩を支える役割を担った。10月韓民党は、[[アメリカ]]から帰国直後の李承晩とともに政府準備組織「[[独立促成中央協議会]]」(独促)を発足させた。李承晩・韓民党連合は臨政・建準両派に対抗し、アメリカ軍政の力も借りて彼らを排除した。ほどなくして、韓民党は[[李承晩]]とともに解放直後の[[ソウル]]政界で主導権を握るにまで至った。
 
1948年5月の制憲議会選挙では29議席を得たが、李承晩系の[[大韓独立促成国民会]](独促)や[[無所属]]勢力が多数派を占め、韓民党は第3党にとどまった。
 
=== 野党への転落 ===
しかし、韓民党と李承晩の連合は[[大韓民国]]樹立前の短い一時期にしか成立せず、後に両者は激しく対立した。最初の対立は[[大韓民国憲法|憲法]]制定において[[大統領制]]か[[議院内閣制]]を採用するかを巡っておきる。韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の[[高麗大学校]]で湖南財閥の一員)教授をし、[[ソウル大学校]]教授を兼務していた[[兪鎮午]]・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される<ref>[[木村幹]], 韓国における「権威主義的」体制の成立-李承晩政権の崩壊まで-, [[ミネルヴァ書房]], 2003, p.118。</ref>。
 
つづいて国務総理の人選をめぐって両者の対立が起こる。[[金性洙]]を推す韓民党に対し、当初李承晩は[[李允栄]]を国務総理に任命しようとしたが、27対120の大差で否決される。しかし李承晩は続いて[[李範ソク|李範奭]]を国務総理に任命し、110対84で承認を得る。さらに李承晩は初代内閣の組閣にあたり韓民党の勢力を徹底的に排除する。韓民党からは[[金度演]]のみが財務部長官に任じられた。こうして韓民党は[[野党]]となる<ref>木村幹, 前掲書, pp.114--118。</ref>。
 
韓民党は[[1949年]][[1月26日]]に、[[申翼熙]]の[[大韓国民党]]、[[池青天]]の[[大同青年団]]と統合して[[民主国民党]](民国党)へと再編された。翌年1950年6月に勃発した[[朝鮮戦争]]により、湖南財閥の中心[[企業]]であった[[京城紡績]]の設備が著しく破壊された上に、李承晩は京城紡績の預金引き出しを停止し、圧力をかける。こうした結果、京城紡績は与党自由党に資金供給を行うようになり、民国党は[[湖南財閥]]の支持を失い、金性洙も[[政治]]の表舞台から姿を消していく。
 
[[1955年]]には[[民主党 (韓国 1955)|民主党]]へと再編・改称され、李承晩政権における野党勢力の中核を担い、1960年4月の[[四月革命 (韓国)|四月革命]]で李承晩が退陣した後で成立した[[第二共和国 (大韓民国)|第二共和国]]の[[与党]]となった。
 
韓民党の流れをくむ政党は、複雑な離合集散はあったものの、[[第六共和国 (大韓民国)|第六共和国]]に至るまで野党勢力の中核をなして政権と対立しつづけた。そのため、[[李承晩]]と韓民党との連合は後の目から非常に奇妙なものとして映っている。
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== 政綱・政策 ==
=== 政綱 ===
# [[朝鮮民族]]の自主、[[独立国家]]完成を期する。
# [[民主主義]]政体樹立を期する。
# 勤労大衆の福利増進を期する。
# [[民族文化]]を昂揚して[[世界文化]]に貢献する。
# [[国際憲章]]を遵守して[[世界]][[平和]]の確立を期する。
=== 政策 ===
# 国民基本生活の確保