「山田わか」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目:
 
== 略歴 ==
山田わかは明治十二年、神奈川県[[三浦郡]][[久里浜村]](現在の[[横須賀市久里浜1丁目]])で浅葉弥平治とミヱの3女として生まれた。浅葉家は久村の名主を務めた豪農で、屋号は「森の家」といい、見事な屋敷林があった。子供のころは優しく、朗らかで、利発な子であった。尋常小学校を優秀な成績で卒業し進学を強く望んだが、「女に学問はいらない」という時世、高等小学校への進学はさせてもらえず子守りや畑仕事などの家事の手伝いをし、16歳で他家へ嫁いだ。ところが、生家を継いだ長兄の代に実家は財を失い、実家を救おうと奔走するが婚家からの助けは得られなかった。18歳のころ、守銭奴の夫と別れて[[1897年]](明治30年)渡米、しかしだまされて[[シアトル]]で苦界に身沈めていたとき、[[1900年]](明治33年)に新聞記者・立井信三郎に救われて、[[サンフランシスコ]]に脱出。その後サンフランシスコのキリスト教長老派教会のミッション・ハウス(のちに「キャメロン・ハウス」とよばれるようになった救済施設)に身を寄せ、[[キリスト教]]に入信し通訳として働く。[[1903年]](明治36年)に、社会学者[[山田嘉吉]]の英語塾へ入り翌年結婚。[[1906年]](明治39年)に帰国、東京四谷区に居住。
 
嘉吉の下で[[スウェーデン]]の社会思想家[[エレン・ケイ]](1849-1926)の[[母性主義]]の思想にふれ、以後、妊娠・出産・育児にあたる母親を国家により保護する、すなわち国による母性の保護を思想信条とした。嘉吉の外国語塾の塾生、[[大杉栄]]を通じて知った、[[平塚らいてう]]の『[[青鞜]]』誌上にエレン・ケイ、[[オリーブ・シュライナー]]などの翻訳や、小説、随筆を寄稿、[[新婦人協会]]の設立時には評議員の一人として参加。また[[1934年]](昭和9年)5月、母性保護法制定促進婦人連盟(翌年4月、[[母性保護連盟]]と改称)が結成されると初代委員長に就任。運動の成果は、[[1937年]](昭和12年)3月に「[[母子保護法]]」の成立として結実する。