「河井継之助」の版間の差分

m
→‎北越戦争の開戦: 一部表現の修正・補筆
m (冗長表現の簡素化)
m (→‎北越戦争の開戦: 一部表現の修正・補筆)
 
=== 北越戦争の開戦 ===
長岡藩は7万4,000石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、官軍に恭順を主張していた世襲家老首座連綿の[[稲垣茂光]]は交戦状態となる直前に出奔。世襲家老次座連綿の[[山本帯刀]]や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍への開戦前恭順を主張するも開戦決定後は藩命に従った<ref>但し客分の筋目であった先法三家は藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる(もっとも藩士・村松忠治右衛門編集とされる「長岡藩戊辰戦争の記」(1995年・長岡市、『長岡藩戊辰戦争関係資料集〈長岡市史双書No.31』〉所収)には銃卒小隊長として先法家の一人と思われる槇小太郎が実戦に参加している記録がある)。</ref>。上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる
 
継之助の長岡慶応改革北越戊辰戦争よっおいも、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[7月8日]])に[[長岡城]]を奪われた<ref>この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な[[世直し一揆]]が発生する。[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[7月9日]])に発生した吉田村・太田村(現在の[[燕市]])を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[8月14日]])までに全て鎮圧した。この鎮圧のために長岡藩は一時兵力の多くを割くこととなり、新政府軍との戦いにも支障を来たした上、多くの領民が処罰され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。</ref>。
 
その後[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[7月21日]])、今町の戦いを制して逆襲に転じる。[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[9月10日]])夕刻、敵の意表をつく[[八丁沖]]渡沼作戦を実施し、[[7月25日 (旧暦)|翌日]]([[9月11日]])に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であり、[[石原莞爾]]の[[陸軍大学校]]における卒業論文は河井の戦術を研究したものであった。