「庄内藩」の版間の差分

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しかし、5代・[[酒井忠寄|忠寄]]は正妻を[[加賀藩]]・[[前田氏]]より迎え、[[老中]]として幕閣の一翼を担い、[[日光東照宮]]修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落した。
 
7代・[[酒井忠徳|忠徳]]の代になると借金は20数万両に膨らんだ。ここに酒田の大地主・[[本間家]]当主の[[本間光丘]]に藩財政立て直しを委任した。光丘は藩士・農民などの借財の一切を肩代わりし、江戸藩邸の支出を抑えるなど出費の無駄を省き、借金の返済計画を立案・実行させた。また、飢饉に備え備荒籾(備蓄米)を蓄えた。その政策は天明の飢饉で一時挫折するが、藩政改革への道を切り開くことになり、寛政7年([[1795年]])には老中竹内八郎右衛門を中心にして農村改革を断行。貸付して膨らんだ藩からの米金の返済を免除し、富農には困窮与内米を課し、それを飢饉時に農民を救う資金へとあてた。手当米を与え、放棄され荒廃した公有地で耕作させるなどの諸政策は実を結び、次第に農村は再生していく。それは税収の安定をもたらし、藩財政は好転した。天保4年([[1833年]])に大凶作が起こるが、他国米の買い入れ、配給制の実施で他の東北諸藩に比べると餓死者は少ないものだった。それらの飢餓への対処が、後の三方領地替えの際の領民の行動に繋がったという説もある。しかし農村へ与えた影響は甚大で、再びの農政改革を必要とした。
 
文化2年([[1805年]])には忠徳が、藩校[[致道館]]を設立。祭酒司業には[[太宰春台]]の教えを受けた[[白井矢太夫]]が任じられた。