「山田方谷」の版間の差分

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# 「刀による戦い」に固執する武士に代わって[[農兵制]]を導入し、若手藩士と農民からの志願者による[[イギリス]]式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は[[長州藩]](後の[[奇兵隊]])や[[越後長岡藩|長岡藩]]でも模範にされた。
 
方谷は朱子学儒教(とこれを奉ずる[[幕藩体制]])の弱点を、己の欲望を絶とうとする余り、義に適った利までも軽視んでしまい結果的には正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう点にあることに気付いていた。従って、当時の幕藩体制ではありえなかった、藩(武士)が商業を手がけることにして非難の声意見を受けることあったが、ののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
 
方谷の思想は後に、弟子の[[三島中洲]]の「義利合一論」へと発展して、[[渋沢栄一]]らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛<small>(しせいそくだつ)</small>という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。