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当時の[[東京市]][[杉並区]][[阿佐谷]]生まれ<ref name="この母ありて">木村隆『この母ありて』 青蛙房 2010年 116-117頁</ref>。
 
父親は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]で転属により、小学校2年のとき[[北海道]][[札幌市]]へ移り、終戦の年に両親の故郷・[[富山県]][[富山市]]へ疎開し、その後高校卒業まで富山で育つ<ref name="この母ありて"/>。富山市立西田地方小学校、[[富山大学人間発達科学部附属中学校|富山大学教育学部附属中学校]]、[[富山県立富山高等学校]]<ref>高校生の時に10歳上の女性と恋愛関係にあった。エッセイ「肉体の悪魔」(『わが心に歌えば』で[[肉体の悪魔 (1947年の映画)|同名映画]]を語った )や「北国の冬」([[朝日新聞]]1994年7月26日)に書き、『燃える頬』のモデルとなった。市内の喫茶店チェリーや白樺で、「鮮やかに美しすぎた」人妻と1年の恋をして別れた。</ref>、[[東京大学]][[文学部]]美学美術史学科卒業後、[[TBSテレビ|ラジオ東京(現・TBS)]]入社。同期に、[[鴨下信一]]・[[柳井満]]・[[山本文郎]]らがいる。
 
演出家、[[プロデューサー]]として『[[寺内貫太郎一家]]』、『[[時間ですよ]]』など[[テレビ]]史に残る数多くの[[テレビドラマ]]を製作した。[[1979年]]、不倫スキャンダルが週刊誌で公となり<ref name="日刊ゲンダイ">{{Cite web|url=http://megalodon.jp/2013-1109-1331-37/news.gendai-tmp.lexues.com/articles/view/geinox/141378|title=(cache)【プレイバック芸能スキャンダル史】樹木希林に不倫を暴露された久世光彦|publisher=[[日刊ゲンダイ]]([[ウェブ魚拓]]によるキャッシュ)|date=2013-03-06|accessdate=2013-11-09}}</ref>、TBSを退社。[[1980年]]に制作会社「[[カノックス]]」を設立。
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*[[読売ジャイアンツ]]ファンだった。
*『[[ムー一族]]』…[[郷ひろみ]]と[[樹木希林]]のデュエットによる番組挿入歌「[[林檎殺人事件]]」がヒットした。樹木が本作の打ち上げパーティーのスピーチで、久世と「近松屋のともこ」役の女優のぐちともこが不倫関係にあり、既にのぐちがこの時、妊娠8か月であった事を暴露したことから、一大スキャンダルに発展(発覚当時、久世の妻は「認知などさせない」と強硬な姿勢だったが、後に正式離婚し、のぐちと再婚)<ref>{{Cite web|url=http://megalodon.jp/2013-1113-1115-35/book.asahi.com/author/TKY201102020197.html|title=(cache)「テコちゃんの時間 久世光彦との日々」 久世朋子さん 著者に会いたい - BOOK|publisher=[[朝日新聞社|asahi.com]](ウェブ魚拓によるキャッシュ)|date=2011-01-30|accessdate=2013-11-13}}</ref>。久世と樹木は[[1996年]]放送のドラマ「[[坊っちゃん#テレビドラマ|坊ちゃんちゃん]]」まで絶縁状態となった。ただ久世とのぐちの関係は当時関係者や出演者の間で「公然の秘密」とされており周知の間柄だったが、樹木には周囲の共演者らと険悪な関係になりながらも「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」、「2人の気持ちを軽くしてやろうと思った」との真意があった。また、こうした場での暴露を非難する声に対しても「ああいう見せかけの優しさが久世さんをダメにした」と反論している<ref name="日刊ゲンダイ"/>。
*『寺内貫太郎一家2』…開始間もなく過激な喧嘩シーンを収録していて[[西城秀樹]]が骨折、休養。最終回(30回目)は、向田が乳がんの手術のために久世が「原案・向田邦子」「脚本を担当した・林紫乃」久世のペンネーム・林紫乃というのは久世の長女の名前をもじったものとなった。この時のことを久世は「雁の別れ」(『触れもせで - 向田邦子との二十年間』[[講談社文庫]])に書いている。紫乃というのは久世の長女の名前をもじったもの
*喜劇的要素が強い作風のテレビドラマが多いことで知られるが、この要素を取り入れるため自ら志願して当時所属していたTBSの大人気バラエティ番組『[[8時だョ!全員集合]]』のコント演出を数回行っている。これをきっかけとして、同番組のプロデューサーだった[[居作昌果]]、出演していた[[ザ・ドリフターズ]]のリーダー・[[いかりや長介]]を「師匠」として尊敬するようになった。
*『[[時間ですよ|時間ですよ・昭和元年]]』…[[1974年]]3月に[[ザ・ドリフターズ]]を脱退した[[荒井注]]は、「[[8時だョ!全員集合]]」の客員ディレクターを務めたこともある久世の出演要請により、[[1974年]]10月放送開始の本作で芸能界へ復帰した。