「那智 (重巡洋艦)」の版間の差分

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アジア歴史史料センター資料追加、竣工・御召艦当時について加筆
参考文献1冊追加、レイテ沖海戦について加筆
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9月6日20時56分ごろ、大湊から幌筵島に向かっていた「那智」に向けてアメリカ潜水艦「[[ハリバット (潜水艦)|ハリバット]]」 (''USS Halibut, SS-232'') が[[魚雷]]3本を発射し、うち2本が後部煙突直下と艦尾に命中した。しかし、この魚雷は2本とも不発に終わり、へこみと若干の浸水が生じたこと以外は何もなかった。
 
=== レイテ沖海戦 ===
[[1944年]](昭和19年)10月15日、[[台湾沖航空戦]]での過大な戦果報告により大損害を与えたと考えられた米[[機動部隊]]攻撃のため重巡洋艦「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」などとともに[[瀬戸内海]]を出撃。17日[[奄美大島]][[薩川湾]]に入港、18日出航。20日[[馬公市|馬公]]に進出し翌21日、[[レイテ湾]]に来襲したアメリカ軍攻撃のため第二遊撃部隊(いわゆる志摩艦隊)旗艦として出撃。25日に[[スリガオ海峡]]で大破した重巡洋艦「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」と衝突し損傷する。28日[[マニラ]]入港。11月5日、[[マニラ湾]]で米[[航空母艦|空母]]「[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]」 (''USS Lexington, CV-16'') からの艦上機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷の命中により沈没。乗員807名が戦死し、220名が救助された。
[[1944年]](昭和19年)10月14日、[[台湾沖航空戦]]での過大な戦果報告により大損害を与えたと考えられた米[[機動部隊]]攻撃のため、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]、司令長官[[志摩清英]]中将、通称'''志摩艦隊''')に対し台湾東方へ進出し、「好機をとらえて敵損傷艦の補足撃滅及び搭乗員の救助に当れ」と命令、[[豊田副武]]連合艦隊司令長官も「敵機動部隊はわが痛撃に敗退しつつある。基地航空隊と第二遊撃部隊は全力を挙げて残敵を掃討せよ」と命じる<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]75頁</ref>。15日、志摩艦隊旗艦「那智」は重巡洋艦「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」などとともに[[瀬戸内海]]を出撃した。一方、米軍のハルゼー提督は暗号解読により日本艦隊(志摩艦隊)が出撃したと知ると、損傷巡洋艦2隻に空母を含む護衛部隊をつけ、偽装電報を発信して日本艦隊を誘因しようとした<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]59頁</ref>。しかし日本艦隊の動きが鈍い事を知ると、艦隊戦闘に向けての準備をやめ、レイテ上陸支援に専念するよう命じた<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]61頁</ref>。16日、連合艦隊司令部は米軍機動部隊が健在である事にようやく気付き、志摩艦隊に台湾の馬公に入港するよう命じる<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]77頁</ref>。17日、志摩艦隊(那智)は[[奄美大島]][[薩川湾]]に入港、18日出航、20日[[馬公市|馬公]]に進出した<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]130頁</ref>。翌21日、第二航空艦隊長官から駆逐艦3隻派遣の要請を受け、第二航空戦隊の高雄~マニラ輸送に協力するよう命じられていた志摩長官は第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)を派遣し、これにより志摩艦隊戦力は「那智」「足柄」「阿武隈」及び駆逐艦4隻(第七駆逐隊、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]・ 第十八駆逐隊[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]])に減少してしまう<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]132頁</ref>。志摩艦隊は連合艦隊と南西方面艦隊の命令に振り回されており、その指揮系統は非常に複雑であった<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]141頁</ref>。同日、志摩艦隊は[[レイテ湾]]に来襲したアメリカ軍攻撃のため出撃。23日夕刻にコロン湾に到着すると、24日午前2時に出港、西村艦隊の後を追うようにスリガオ海峡に向かったが、指揮系統の違う両艦隊の間で情報の交換は全く行われなかった<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]195頁</ref>。
 
25日日付変更直後、「那智」以下志摩艦隊は[[スリガオ海峡]]に突入。当初は、「曙」「潮」が2km先行して並列して進み、後方中央に「那智」「足柄」「阿武隈」「不知火」「霞」が単縦陣を形成して26ノットを発揮していた<ref name="捷号作戦失敗250">[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]250頁</ref>。午前3時頃、西村艦隊と米艦隊との戦闘音や閃光を視認する<ref name="捷号作戦失敗250"/>。直後、米軍魚雷艇の攻撃により「阿武隈」が3時24分に被雷落伍する。「那智」「足柄」及び駆逐艦4隻は単縦陣を成形して航行し、4時10分に海峡中央部で炎上する艦艇2隻を発見するが、それは分断された西村艦隊の戦艦「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」であった<ref name="捷号作戦失敗250"/>。さらに避退中の西村艦隊残存艦「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」から艦名を問われ、「われ那智」と返答する<ref name="捷号作戦失敗251">[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]251頁</ref>。志摩長官は「那智のあとに続け」と命じたが、「時雨」は「われ舵故障中」と返答して、単艦で避退していった<ref name="捷号作戦失敗251"/>。4時15分、「那智」のレーダーが方位25度、距離11kmに敵艦らしき目標2つを探知、「那智」「足柄」は各艦魚雷8本を発射した<ref name="捷号作戦失敗251"/>。米軍はヒブソン島で日本軍の魚雷2本を発見しているため、「那智」「足柄」の魚雷は島に向けて撃ったとみられるが、雷跡を視認して報告した米軍駆逐艦部隊も存在する<ref name="捷号作戦失敗251"/>。雷撃後の「那智」は炎上中の西村艦隊重巡「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」の前方を通過しようとしたが、停止したと思われていた「最上」は速力8ノットで前進しており、「最上」は「那智」の右舷一番砲塔附近に衝突する<ref name="捷号作戦失敗251"/>。「最上」は「那智」に対しメガフォンで舵故障と艦長副長戦死の状況を伝達した<ref name="捷号作戦失敗251"/>。
 
「那智」は艦首を損傷し、最大速力約20ノットに低下してしまう<ref name="捷号作戦失敗251"/>。志摩長官は突入中止を決定、4時25分に「当隊攻撃終了、一応戦場を離脱して後図を策す」と打電する<ref name="捷号作戦失敗251"/>。「那智」「足柄」は「扶桑」残骸のそばを通過、再び「時雨」と遭遇して合流を指示したが、「時雨」は続行できなかった<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]252頁</ref>。「阿武隈」に対しては「不知火」が、「最上」に対しては「曙」が護衛を命じられた<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]254頁</ref>。夜が明けると、志摩艦隊は米軍魚雷艇群、米軍水上艦艇、米軍機動部隊艦載機、米軍基地航空隊の反復攻撃を受け、「最上」「阿武隈」が沈没する。マニラを目指して避退中、志摩長官は栗田艦隊(第一遊撃部隊)から落伍・航行不能となっていた重巡洋艦「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」を発見し、「足柄」「霞」に救援を命じた<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]406頁</ref>。「那智」「不知火」は14時にコロン湾に着、「熊野」「足柄」「霞」は16時28分にコロン入泊を果たした<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]406頁</ref>。
尚、[[経済学者]]で[[東宮]]御教育常時参与、[[慶應義塾]]塾長を務めた[[小泉信三]]の長男である[[小泉信吉]]は[[主計中尉]]として当艦に乗船していたが、その後八海山丸に移り、[[1942年]](昭和17年)[[10月22日]]に戦死している。
 
[[サミュエル・モリソン]]は著書「モリソンの太平洋海戦史」の中で本海戦について『日本海軍がこの戦闘で何をもって慰めとするかの答えはむつかしい。彼らの雷撃の技量は1943年の標準に及ばず、砲撃の効果もきわめて小さかった。シーマンシップさえ低下したことは那智と最上の衝突が示している。戦闘全体を通じて最も知的な行為は、志摩長官が避退命令を出したことだった。』と評している<ref>[[#捷号作戦はなぜ失敗したのか]]265頁</ref>。
 
=== 沈没 ===
11月5日、「那智」は[[マニラ湾]]で米[[航空母艦|空母]]「[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]」 (''USS Lexington, CV-16'') からの艦上機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷の命中により沈没。乗員807名が戦死し、220名が救助された。
 
== エピソード ==
尚、*[[経済学者]]で[[東宮]]御教育常時参与、[[慶應義塾]]塾長を務めた[[小泉信三]]の長男である[[小泉信吉]]は[[主計中尉]]として当艦に乗船していたが、その後八海山丸に移り、[[1942年]](昭和17年)[[10月22日]]に戦死している。
 
== 兵装  ==
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030747800|title=昭和16年11月~昭和18年5月 軍艦那智戦時日誌及行動図(2)|ref=昭和16年11月~那智日誌及行動図(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030038400|title=昭和19年10月1日~昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(5)軍艦那智・軍艦武蔵|ref=捷号作戦戦時日誌(5)軍艦那智}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[左近允尚敏]]|year=2010|month=10|title=捷号作戦はなぜ失敗したのか {{small|レイテ沖海戦の教訓}}|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4-12-004169-3|ref=捷号作戦はなぜ失敗したのか}}
 
== 関連項目 ==