「安藝ノ海節男」の版間の差分

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=== 引退後~晩年 ===
引退後は[[常ノ花寛市|藤嶌]]の娘と結婚し、年寄・[[不知火 (年寄名跡)|不知火]]を襲名(後に[[藤島 (相撲)|藤嶋]]を継承)して、相撲協会の理事に就任した。当然、次期出羽海の有力候補だったが、1953年に自身が経営していた「ちゃんこ安藝」の地下に[[キャバレー]]を出店させて出羽海の怒りを買ったことが致命的になり、その後自身の離婚問題により平年寄に降格されると[[1954年]]をもって廃業した。問題となった「ちゃんこ安藝」は程無くして泣く泣く手放さざるを得なくなった。
 
廃業後は東京・八重洲で相撲料理店、東中野でアパート、北鎌倉で洋品店を経営し、大相撲中継のゲスト解説に度々登場した。[[1974年]]に還暦を迎えたが、[[還暦土俵入り]]は行われず、使用する予定だった赤い綱の所持も不明である。1979年3月25日、[[うっ血性心不全]]のため[[鎌倉市]]の病院で死去。{{没年齢|1914|5|30|1979|3|25}}。