「桃中軒雲右衛門」の版間の差分

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→‎略歴: 晩年については出典多数。二代目の件については安斎竹夫『浪花節の世界』P.225に詳述あり。
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本名は山本繁吉。[[群馬県]][[高崎市]]新田町出身。父は地方回りの[[祭文語り]]をしていた[[吉川繁吉]]で、その二男として生まれる。母・ツルは三味線弾きであった。
 
最初は吉川小繁を名乗り、ヒラキでの口演や流しなどをしていた。父の没後、その名である2代目吉川繁吉を襲名し、寄席への進出も果たす。その後、横浜で中京節の初代[[三河家梅車]]と興行を共にされていた夫人のお浜に同情して恋仲となり、そのまま駆け落ちして結婚したため関東に戻れず、京都を経て九州へと至り修行を積む。その過程で従来の関東節に加えて、関西節や、九州で当たりを取っていた[[美当一調]]の改良「糸入り講談」(三味線を伴奏に入れた軍談。浪花節を自家薬籠中のも前駆形態考えられいる)を取り入れ、後の雲右衛門節を生み出していった。略称として「雲」一文字、または「雲入道」がある。雲右衛門独特の重厚なフシ調を「雲調」や「雲節」と呼ぶ。
 
[[1903年]](明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた[[宮崎滔天]]や、[[福本日南]]、政治結社[[玄洋社]]の後援で「義士伝」を完成させる。[[武士道]]鼓吹を旗印に掲げ、[[1907年]](明治40年)には[[大阪]][[中座]]や[[東京]][[本郷座]]で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の[[劇場]]への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。