「毛利興元」の版間の差分

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| 氏族 = [[毛利氏]]
| 父母 = 父:[[毛利弘元]]、母:[[福原広俊]]女(正室)
| 兄弟 = '''興元'''、[[毛利元就|元就]]、[[北就勝相合元綱]]、[[相合元綱北就勝]]<br />[[見付元氏]]、[[武田氏]]の室
| 妻 = 正室:[[高橋久光]]女
| 子 = '''[[毛利幸松丸|幸松丸]]'''、<br/>娘([[山内豊通]]、[[小早川興景]]、[[行松正盛]]、[[杉原盛重]]妻)
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[[毛利弘元]]の嫡男として明応元年(1492年)に生まれる。明応8年([[1499年]])、弘元の隠居にともない、8歳で[[毛利氏]]の当主となる。永正4年([[1507年]])に[[大内義興]]を烏帽子親として元服する。また主君である義興から偏諱を賜り興元と名乗った。
 
同年、[[明応の政変]]により、[[足利義稙]]を奉じて京都に上洛した[[大内義興]]に従い、4年間在京し、[[船岡山合戦]]にも参加した。大内義興と興元が在京中に、一足先に帰国した[[出雲国]][[尼子氏]]当主・[[尼子経久]]の勢力が盛んになると、芸備地方は尼子氏と大内氏の勢力が激突する場となった。興元は、安芸国で他の有力国人領主([[高橋久光]]・[[平賀弘保]]・[[天野興次]]ら)と[[国人一揆]]([[安芸国人一揆]])を締結、[[備後国]]でも国人対立の調停を行うなど、芸備の国人領主のリーダー格として活躍した。しかし近隣の[[宍戸元源]]との争いは続き、興元は宍戸領内へ攻め込んで戦ったが勝負がつかなかった。その心労のためか[[]]に走るようになり、25歳の若さで急死した。
 
毛利氏の家督は若年の嫡男・[[毛利幸松丸|幸松丸]]が継ぎ、弟の[[毛利元就|元就]]が後見人として支えた。