「日野熊蔵」の版間の差分

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[[1910年]](明治43年)4月11日、臨時軍用軽気球研究会から[[徳川好敏]]大尉とともに操縦技術習得のため[[フランス]]のアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され、5月末に入学する。その後、エンジン買い付けの失敗などもあり、7月25日に単身[[ドイツ帝国|ドイツ]]に移動、ヨハネスタール飛行場で操縦技術を学び[[グラーデ単葉機]]を購入した。
 
同年[[12月14日]]、代々木錬兵場(現・[[代々木公園]])において滑走試験中の日野は飛行<ref>十四日に早くも二㍍の高さで百㍍余り、十六日には高度三㍍、距離百㍍を飛行したが、いずれも「滑走中あやまって離陸」という発表にされている。- [http://kyouiku.higo.ed.jp/page2022/002/005/page2321.html 熊本県教育委員会]</ref>に成功し、これが日本史上の初飛行とされる。しかし、飛行機研究の第一人者として、また当時数少ない実際の航空機の飛行を見たことがある人物であったため、事実上の現場責任者として間近で注視していた[[田中館愛橘]]博士や、操縦していた日野自身も、初飛行であることを認める発言はしていない。さらに、初飛行の根拠となっている距離については、唯一「初飛行」と報じた[[萬朝報]]の記者が60mと報じたがあくまで目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とは報じていない。また記者自身も後日、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりした。今から思うと、なんだか自分が気の毒になる。」と書いている<ref>[[村岡正明]]『初飛行』、光人社、2010年、164-168頁。</ref>。また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとする意見もあるが、<ref>[[木村秀政]]『飛行機の本』、新潮社、昭和37年。</ref>。しかしながら、日野の60mの区間を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態'''なかった'''」とする史料もないのでありは存在せず、逆に後日の徳川・日野の記録中も”を「操縦者が意のままに機を操縦できる状態'''あったかは史料になく、日野の記録を初飛行'''」言えないと断定するのは、あ史料もりにも軽率軽薄と言うた存在ない。
 
19日には”公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功した。これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。事前の報道においては、当時天才[[発明家]]などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった<ref>[[村岡正明]]『初飛行』、光人社、2010年、134、156頁。</ref>。しかし徳川、日野の順に飛んだため、”アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされているしまった。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた[[清水徳川家]]の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および[[華族]]関係者の意向・圧力だったとする説がある<ref>[[横田順彌]]『雲の上から見た明治』、学陽書房、1999年、15-16頁。</ref>。しかし、当時天才[[発明家]]などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった<ref>[[村岡正明]]『初飛行』、光人社、2010年、134、156頁。</ref>。また陸軍の方針としてたとえ名家の出身であっても軍内部での扱いは平民と同じであったため、この批判は適切ではないとする意見もあるが逆に、華族の要人であった徳川一族としては、「徳川」の名を汚名挽回する絶好の機会であったとも言える。
 
ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって'''「日本初飛行の日」'''とされている。