「禎子内親王」の版間の差分
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長和2年10月(1013年)、[[親王宣下|内親王宣下]]を受け、同4年着袴、[[准后|三宮に准ぜられる]]。
禎子内親王の誕生は祖父道長と父[[三条天皇]]の間がしっくりいかない最中のことであり、それだけに皇子誕生で関係改善を期していた道長は女子の誕生に不機嫌であった<ref>『[[小右記]]』[[長和]]二年七月七日条。「相府(道長)已に卿相・宮殿の人等に見え給はず、不悦の気色甚だ露なりと。女を産ましめ給ふに依りてか」</ref>。しかし三条天皇はこの末の皇女に非常に愛情を注ぎ、道長ものちにはその外孫にふさわしく遇して、
[[治安 (
長元2年(1030年)[[良子内親王]]を、同5年(1032年)[[娟子内親王]]を出産したのち、同7年(1034年)[[後三条天皇|尊仁親王]]を出産した。
長元9年、夫の[[皇太子]]敦良が[[即位]]([[後朱雀天皇]])。同10年2月(1037年)、[[中宮]]に冊立されるが、3月[[藤原げん子|嫄子]]([[藤原頼通]]養女)の立后で[[皇后|皇后宮]]に転じる。このころから、禎子と[[摂家|摂関家]]の関係は悪化していった。頼通や[[藤原教通|教通]]らが次々と娘たちを入内させる一方で、皇后でありながら禎子はほとんど宮中入りすらままならなかった。そんな禎子を陰で支えたのは頼通・教通らの異母弟[[藤原能信|能信]]であった。『[[今鏡]]』の伝えるところによれば、[[中宮職|中宮大夫]]でもあった彼の働きで、禎子所生の
[[寛徳]]2年(1045年)
しかし後三条天皇の後を継いだ[[白河天皇]]は、父の遺命に背き、異母弟[[輔仁親王]]を[[皇位継承]]から排除して、我が子善仁親王(後の[[堀河天皇]]、陽明門院からみれば曾孫にあたる)への譲位を強行した。これに陽明門院が激怒して一時両者の間が疎遠となる。だが、白河上皇もいつまでも実の祖母と仲違いを続ける訳にはいかず、篤子を堀河天皇に入内・立后させた。これを見届けたのち、寛治8年(1094年)[[天然痘|疱瘡]]で崩御した。享年82。
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== 系図 ==
{{皇室平安中期}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{歴代皇后一覧}}
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