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[[ファイル:1scottturow.jpg|thumb|right|スコット・トゥロー]]
'''スコット・トゥロー'''({{En|'''Scott Turow'''}}、[[1949年]][[4月12日]] - )は、[[アメリカ合衆国|米国]][[シカゴ]]生まれの[[法廷もの|リーガルサスペンス]](リーガルスリラー)[[小説家]]、[[ノンフィクション]][[作家]]で、[[法曹]]界でも活躍する現役の[[弁護士]]。元検事補。[[死刑存廃問題|死刑廃止]]論者<ref>{{YouTube|i9l06LFFor8|Scott Turow -- End the Death Penalty}}(投稿日; 2010年11月8日)</ref>。「'''スコット・タロー'''」と表記する翻訳書もある。
 
日本では映画化された小説『[[推定無罪 (映画)|映画化された]]小説『推定無罪]]』が代表作と見なされ、国際的には六作の小説と二作のノンフィクションが25ヶ国以上で翻訳・出版され、あわせて2500万部以上出版されている人気作家である。
 
法律家としては、[[イリノイ州]]知事ジョージ・ライアンから[[死刑]]諮問委員に任命され、報告書(答申)を起草し、ライアン知事を[[死刑囚]]全員減刑、死刑制度一時停止宣言へと導く一翼を担った(2002年)。
 
== プロフィール ==
[[アマースト大学]]を[[1970年]]に卒業後、[[1971年]]に画家アネットと結婚。[[スタンフォード大学]]クリエイティブライティングセンター(大学院)の特別研究資格を得て、[[1972年]]まで創作を学び、[[1975年]]まで[[スタンフォード大学]]で講師を務めた。
 
スタンフォード大学を退職して法曹界に転身を図ることにして、[[1975年]]に[[ハーバード・ロー・スクール]] (HLS: ''[[:en:Harvard Law School|Harvard Law School]]'') に入学。入学前に、ロー・スクールでの最初の1学年についてのノンフィクション著作を執筆・出版する契約を出版社と締結した。その著作が、 ''One L'' (邦題『ハーヴァード・[[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロー・スクール]] わが試練の一年』)であり、同書は1977年に出版された。[[1978年]]、ハーバード・ロー・スクールを卒業し[[ジュリス・ドクター]](日本の[[法務博士(専門職)|法務博士]]に相当)を取得。同年、[[シカゴ]]地区連邦検察局検事補に採用され、[[1986年]]まで勤務する。検事補としては、州司法長官ウィリアム・スコット詐欺事件など著名な汚職事件を担当した。またシカゴで起きた法曹の賄賂や州判事の汚職で知られるオペレーショングレイロード事件 ([[:en:Operation Greylord|Operation Greylord]]) などにも積極的な助言を行なっている。
 
連邦検察局在職中に執筆した ''Presumed Innocent'' (『推定無罪』)がベストセラーとなったのを契機に、検事補を退職して作家活動を開始した。
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=== 作家活動 ===
[[ニューヨーク・タイムズ]]の年間[[ベストセラー]]小説リスト ([[:enw:List of bestselling novels in the United States|List of bestselling novels in the United States]]) によれば、 ''Presumed Innocent'' (『推定無罪』)が1987年に第7位、 ''The Burden of Proof'' (『立証責任』)が1990年に第3位、 ''Pleading Guilty'' (『有罪答弁』)が1993年に第8位、 ''Personal Injuries'' (『囮弁護士』)もベストセラー入りを果たしている。雑誌[[タイム (雑誌)|タイム]]は1990年6月11日付の表紙に取り上げ、「訴訟時代の詩人」と評した。
 
[[アラン・J・パクラ]]監督により1990年に映画化された『[[推定無罪 (映画)|推定無罪]]』は、世界で2億ドル以上の興行収入を上げた。配役は[[ハリソン・フォード]]、[[ブライアン・デネヒー]]、ラウル・ジュリア(『[[アダムス・ファミリー]]』)など。