「シチ川の戦い」の版間の差分

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==結果==
シチ川での敗北は、ウラジーミル大公国の、モンゴルの侵攻に対する抵抗を無力化させた<ref>[http://slovari.yandex.ru/~книги/ Ситская битва 1238]//[[:ru:Большая советская энциклопедия|Большая советская энциклопедия]]</ref>。ウラジーミル大公国はモンゴル帝国へ従属することが決まった。ユーリー死後の大公位は兄弟の[[ペレヤスラヴリ・ザレスキー公]][[ヤロスラフ2世|ヤロスラフ]]が継いだ。ヤロスラフはウラジーミル大公国と、[[ペレヤスラヴリ・ザレスキー公国[[:ru:Переяславль-Залесское княжество|(ru)]]を直接統治することになった。
 
一方、ブルンダイのモンゴル帝国軍では疫病が発生し、弱体化した。それは[[バトゥ]]が[[ノヴゴロド]]への進軍を断念した理由の一つとなった<ref>[http://www.bg-znanie.ru/article.php?nid=17539 Битва на реке Сить]</ref>。