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[[ファイル:Guayaquil LaRotonda Bolivar SanMartin.JPG|left|thumb|275px|[[グアヤキル]]に並び立つ、二人の解放者とラテン・アメリカの解放と統一の記念碑]]
[[アルゼンチン]]の[[ホセ・デ・サン・マルティン]]将軍は、チリの独立指導者[[ベルナルド・オイヒンス]]や、[[スコットランド]]の元[[英王立海軍]]軍人[[トマス・コクラン]]らの力を借りて、アルゼンチンの[[メンドーサ]]から'''{{仮リンク|アンデス山脈越え|en|Crossing of the Andes}}'''を持って[[チリ]]を解放し、そこから海路ペルーまで進み、初代ペルー護国官となって南から解放戦争を進めていた。しかし、スペイン軍とペルー副王のラセルナは抵抗を続けてサン・マルティンを翻弄し、ペルー第一共和国の崩壊が迫っていた。サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。
 
ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放された[[グアヤキル]]で1822年7月26日に会談を行った。
=== グアヤキル会談 ===
サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放された[[グアヤキル]]で1822年7月26日に{{仮リンク|グアヤキル会談|es|Entrevista de Guayaquil|en|Entrevista de Guayaquil}}を行った。会談の内容は資料が残っておらず詳細は不明であるが、グアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったといわれている。ボリバルが共和制を望んだのとは対照的に、サン・マルティンはヨーロッパから王を導入して[[立憲君主制]]を導入することを望んでいたが、ナポレオンの戴冠によりフランス革命が大失敗したと考えていたボリバルにとって、これは到底受け入れることのできない条件だった。結局、ボリバル軍に加わりたいというサン・マルティンの申し出もボリバルが断ると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国してしまった。
 
=== ペルー解放 ===
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