「決闘」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2010年3月}}
[[画像:Hamilton-burr-duel.jpg|thumb|300px|right|[[アレクサンダー・ハミルトン]]と[[アーロン・バー]]の決闘(1804年)]]
'''決闘'''(けっとう、英;duel){{Lang-en-short|duel}})は、2人の人間が事前に決められた同一の条件のもと、生命を賭して戦うこと。果たし合い。
 
==概要==
戦闘は申し込んだ者と申し込まれた者が行うが、病人と女性、年少者は代闘士(チャンピオン)を立てることができた。職業として代闘士があった時代がある。時代が下ると、聖職者、老人なども代闘士を立てることができるようになり、13世紀ごろを境目にどのような人物でも何らかの理由で代闘士を立てることが認められるようになった。
 
封建時代の日本において、主に[[武士]]階級が行った決闘はヨーロッパの作法と幾分異なる部分がある。正式な決闘の場合は、日時と場所を記した「果たし状」を送るが、突発的な理由の場合は、武士は常に刀を携帯している関係上、刀を抜くことが挑戦であり、それに応じて相手が刀を抜けば決闘の受諾となり、そのまま決闘が始まることになる。
正式な決闘の場合は、日時と場所を記した「果たし状」を送るが、突発的な理由の場合は、武士は常に刀を携帯している関係上、刀を抜くことが挑戦であり、それに応じて相手が刀を抜けば決闘の受諾となり、そのまま決闘が始まることになる。
 
[[江戸時代]]の決闘は領主の警察権の対象であり、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件であり刑事罰の対象とされた。有名な[[巌流島]]の決闘の場合では、豊前と長門の間の「ひく嶋」を果し合いの場所に選んでおり、これは大名側(細川・毛利)の統治範囲の曖昧な無人島であったからと推測されている<ref>「異説「巌流島」」吉村豊雄(文学部教授、熊本大学附属図書館報 2002.10)[http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/sites/default/files/no34.pdf]</ref>。決闘の結末は理非をもって裁断され[[喧嘩両成敗]]とはならないのが通常であったが、しばしば[[敵討]]騒動の原因となった。
 
==歴史==
決闘は[[ゲルマン人|ゲルマン民族]]の伝統が由来と考えられている。恐らく、[[6世紀]]には制度として決闘は存在した。[[ゴート族]]は決闘を行わなかったと考えられている。[[イングランド]]には最初期には決闘はなく、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]によってもたらされた。
 
当初、決闘は、正式な裁判手続きの1つであった。犯罪を犯した者が明らかであるにもかかわらず、証拠が十分でないために相手が無罪になったとき、あるいはなると考えられるときに、被害者が決闘を申し込んだ。主に、証拠のない殺人など重犯罪について決闘が行われた。土地の所有権などの争いにも利用することができた。これを決闘裁判と呼ぶ。訴追する者が決闘によれない(重傷者・老人・女性)場合は神判となり、失敗は死か四肢切断を意味した。決闘の場合、決闘責任者は裁判官であった。重犯罪の共犯者が自白し告発人となった場合、自白し告発した共犯者を相手にその嫌疑を決闘で証明することに成功すれば、彼は死を免れ公民権を失い退国宣誓をすることにより命をつなぐ事が出来た<ref>「重罪私訴追のアンジュー改革(1)」マーガレット・H・[[#Kerr|カー、沢田(訳)(山形大学紀要・社会科学 第40巻第2号 2010.2.15)[http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyous/kiyous-40-2/image/kiyous-40-2-029to047.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/110007572374] PDF-Pp. 34、P., 35</ref>。
 
決闘裁判においては、神は正しいものに味方すると信じられていたこともあり、その結果は絶対的なものとして受け入れられていた。
1385年、[[フランス]]で合法的な手続きに基づく最後の決闘が行われた。ジャン・ド・カルージュが、ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。ル・グリは無実であると主張したが決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、ジャン・ド・カルージュの主張が認められた。しかし後になり、ジャン・ド・カルージュは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した。このため、決闘裁判の正当性そのものが揺らぐことになり、この結果、フランスにおいて決闘裁判は制度的に廃止された。
 
[[イングランド]]では、1492年に、正式な裁判手続きに基づく最後の決闘裁判が行われた。同じ世紀の中ごろに、非常に珍しい決闘裁判が行われたという記述があることから、15世紀には裁判手続きのとしての決闘裁判はほとんど行われなくなっていたことがわかる。ただし、イングランドでは決闘裁判は制度としては廃止されずに19世紀までは存在し、1818年までは正式な裁判方法の1つであった。この年、殺人罪で告訴された者が決闘による裁判を選び、約300年ぶりに決闘裁判が行われることになった。しかし、この決闘は殺害された者の遺族が受諾しなかったために成立しなかった<ref>穂積重遠著『法窓夜話』三八章 "決闘裁判"</ref>。この件をきっかけに、翌年、決闘は完全に非合法化された(なお、イギリスでは、これ以前に私闘としての決闘は禁じられており、裁判としての決闘のみが合法とされていた)。
 
===私闘としての決闘===
 
===政治家の決闘===
ドイツの議会で予算問題で紛糾したときに[[オットー・フォン・ビスマルク]]が[[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー]]に決闘を申し込んだ、ウィルヒョーが提示した決闘の方法は見た目が同じ加熱済ソーセージと旋毛虫入未加熱ソーセージを用意して食べるという方法だった。旋毛虫を食べた場合にどれほど無残に死ぬかをビスマルクに説明してビスマルクは決闘を撤回した<ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603088/]</ref>
 
===学生の決闘===
{{Main|メンズーア}}
ドイツ、オーストリア、スイス、およびラトビアやフランドル地方の一部ではメンズーアあるいはStudentenverbindung(AcademicStudentenverbindung (Academic fencing) fencing)という学生文化が存在する。これは15世紀の終りにスペインで[[レイピア]]による決闘が慣例化したのをドイツの学生達が導入し、当初は通りで学生同士が決闘に到り死者を出すことも珍しくなかった。17世紀頃には審判と医師の立会いによる正式なものへと発展し、スポーツと決闘のいずれでもない特有の文化として定着した。これは底意のない形式的な侮辱により開始され、対戦相手のいずれかが血を見ることによりほぼ円満に終結するといったものであり、在学中に十数回ほど対戦することも珍しくなく、ドイツの伝統的な学士会 (Studentenverbindung) のなかには、Mensurの対戦経験があることを加盟条件に課すものもある。
 
==規則==
 
時代や国により、決闘の方法は細かく定められていることがある。たとえば剣による決闘の場合、2分間戦闘ののち1分休憩をどちらかが死ぬまで繰り返す、というようなルールがある場合がある。ただし、決闘のやり方は双方が合意さえすればどのような方式をとってもよい。典型的な決闘の終了条件として、以下のようなものがある。
 
*最初にどちらかが傷つくまで
*どちらかがもはや決闘を続けられないほど傷つくまで
この場合たいてい、動作の早いものが勝者となる。決闘責任者がどちらか一方の拳銃にのみ弾を入れておき、決闘者はくじで拳銃を選ぶという偶然性が支配するルールが採用されることもある。このルールは18世紀末にアメリカ合衆国で使われるようになった([[ロシアンルーレット]]も、このような偶然性が支配する決闘の一種といえる)。
 
近世以降、決闘の方式については、シャトーブリアン著『決闘法』(1835)(1835年)が規範とされることが多い。これによると、決闘を行う際には2名の立会人を立てて相手に決闘の意思を伝える。相手も2名の立会人を立てる。これは24時間以内に行われなければならない。4名の立会人が決まると、決闘を行う2名が会うことは禁じられる。これら4名は可能な限り和解の努力をするが、それができなかった場合、決闘の準備に移る。通常は最初に侮辱された方が武器を選択するが、どちらが最初に侮辱を受けたのか分からない場合、立会人4名が協議してどちらが武器を選択するか決める。立会人4名が協議し、細部のルールを決める。そして、4名の中から決闘責任者を選ぶ。決闘の準備が公正に行われたかどうか、決闘責任者が責任を負う。
 
女は決闘の際、代闘士を立てるのが通例であったが、本人が強く望む場合、自身が決闘を行うことも認められた。この場合、不利にならないよう、特別な条件がつけられた。11世紀末から12世紀のデンマークの決闘裁判では、女は石をつけた紐を、男は棍棒を用い、男は下半身が隠れる穴の中に入れられた。男が撃ち損なって棍棒で地面を3回叩いたとき、女が勝者となった。
<references />
 
==参考文献情報==
*{{Cite journal |和書 |title=重罪私訴追のアンジュー改革(1) |author=マーガレット・H・カー |author2=沢田裕治(訳)() |journal=山形大学紀要社会科学 |volume=40巻第 |issue=2号  |date=2010.2.15)[-02-15 |url=http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyous/kiyous-40-2/image/kiyous-40-2-029to047.pdf][http://ci.nii.ac.jp/ |naid/=110007572374] |ref=Kerr}}※イギリスにおける決闘裁判について。
 
==関連項目==
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