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クリールは後年、CPIでの任務についての回想録『我々はいかにしてアメリカを宣伝したか』を公刊。その中で次のように述べている<ref name = "War2">George Creel, ''How We Advertised America.'' New York: Harper & Brothers, 1920; pp. 4–5.</ref>。
 
{{quote|委員会は検閲機関でも隠蔽または抑圧機関でもなかった。徹頭徹尾開かれた、肯定的な機関であった。[[言論の自由]]や[[表現の自由]]を制限した、これら戦時法の下で権力を模索したり行使したりすることも一切無かった。一切合切、徹頭徹尾、中断や変更無く、一般的な[[広報計画であり、販売手腕の面で巨大な事業であり、広告において[[世界]]最大の[[冒険]]であった。(中略)我々はそれを、ドイツ人の手により[[謀略]]や堕落と結び付けられることになった、プロパガンダとは呼ばなかった。我々の取り組みは教育的かつ有用な情報に富んでいた。我々の場合においては事実の簡潔かつ率直な説明ほど必要とされたものは無かったためである。}}
 
一方、ジャーナリストでウィルソンの助言者を務めた[[ウォルター・リップマン]]は、クリールを厳しく批判。クリールが[[デンバー]]の[[警察]][[委員会]]に所属していた時代、[[市民]]的[[自由]]を侵害していたとして批判的な[[論説]]を寄せたことがある。名指しこそしなかったものの、ウィルソンへ宛てたメモの中で、検閲は「寛容ではない人物にも、抑圧の歴史という愚行の長い記録を知らない人物にも決して託してはなりません」と記している。