「近衛家熙」の版間の差分

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なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった[[山科道安]](やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。
 
『槐記』によれば、家熈は[[自然科学]]にも精通し、[[享保]]16年([[1731年]])、[[雷]]鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している<ref>『槐記』續篇[http://www.nichibun.ac.jp/~shoji/kojiruien-test/ten/frame/f000287.html]</ref>。
[[元文]]元年([[1736年]])10月3日[[薨去]]。享年70。[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の京都[[大徳寺]]に葬られる。
 
[[元文]]元年([[1736年]])10月3日[[薨去]]。享年70。[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の京都[[大徳寺]]に葬られる。
家熈は[[享保]]16年([[1731年]])、[[雷]]鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している<ref>『槐記』續篇[http://www.nichibun.ac.jp/~shoji/kojiruien-test/ten/frame/f000287.html]</ref>。
 
== 系譜 ==
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