「ノート:山吉久盛」の版間の差分

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:テンプレートはコメントアウトし、内容の一部は脚注に記載しました。現時点では関連する自治体史は、信憑性に問題のある後世系図ではなく、確実な史料から山吉氏の系譜を考証しています。--[[利用者:Thomo|Thomo]] 2010年10月11日 (月) 15:18 (UTC)
::馬屋橋氏が「山吉家譜」を参考文献として、削除されていたテンプレートを復活されましたが、「山吉家譜」を参考文献に史実の人物に史実のこととして記載されるのは以前も指摘したように問題があるのではないでしょうか。「山吉家譜」の当該箇所と思われるのは、「始め盛久、久盛云々」と加筆されている「義長」の部分だと思いますが、「山吉家譜」によれば、「義長」は「山吉七郎右衛門尉盛計」の五男で始め「妻有城主大多和氏」に婿養子に行き、兄「盛忠(別名義盛と加筆あり)」の早世により山吉家を継いだとされています。「山吉義長」「大多和義長」「山吉盛計」「山吉盛忠」「妻有城主大多和氏」とも管見の限り史料で確認できません。兄「盛忠」は上杉朝方とともに越後の仕置きをした等、その婚姻関係より山吉家は上杉家の御家門とされた等、史実とは思えない記述内容もあり、同様に系譜に記載されている母が憲将娘等の婚姻関係も信用できるものかどうか疑われます。この「山吉家家譜」には系譜の一部に、明治期に山吉家の末裔とする人物が、本姓の山吉に復することを訴える文書が差し込まれており、その際に証拠として使用された系譜のようです。江戸時代以降、系譜を修飾する偽系図が盛んに作成されたことはよく知られていますし、山吉氏は早くに系譜の伝承を失い、戦国以前の系譜は信憑性が疑われることはすでに研究者が指摘しています(「三条市史」参照)。成立が元禄以前とされている「越後三条山吉家伝記写」は多くの研究論文に引用されているのは確認できますが、「山吉家家譜」は管見の限りないと思います。研究者の引用ならともかく、このような自費出版された系譜をそのまま記載すること(父を行盛、母を上杉憲栄娘とするのは「山吉家譜」にも記載がなく独自研究と思われます)は問題があると思いますので、再び削除とさせていただきます。--[[利用者:Thomo|Thomo]]([[利用者‐会話:Thomo|会話]]) 2014年7月28日 (月) 07:33 (UTC)
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