「アイルランドの歴史」の版間の差分

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m →‎再占領と叛乱: ランバート・シムネルの僭称は前世紀のことであることを明白にした
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m →‎「プロテスタント国家」: 『隊』は不要。これは地方警察「機関」で、「部隊」では無い。
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[[1921年]]から[[1971年]]にかけて北アイルランドは東[[ベルファスト]]に基盤を置く[[アルスター統一党]]政府により統治されていた。創設者の[[ジェームズ・クレイグ]]は北アイルランドを「プロテスタントによるプロテスタント国家」であると述べている。
 
カトリック教徒が被っていた就職や住居そして政治上の差別は多数派に有利な選挙システムにより成り立っていた。[[1960年]]代アメリカ合衆国における[[公民権運動]]の活発化により差別撤廃への関心が強まった。カトリックによるデモが右派[[ユニオニスト]]の影響下にある[[ロイヤル・アルスター警察]](RUC)により暴力を用いて鎮圧されたため社会不安が増加した。騒乱を鎮めるために英軍部隊が北アイルランドに派遣され現地の警察に変わり街の警備につくことになった。
 
紛争は[[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]]と[[血の金曜日事件]]が発生した[[1970年]]代前半に頂点を迎えた。これらの北アイルランド問題は英語ではシンプルに'''The Troubles'''と呼ばれている。紛争に対しなす術のないストーモント議会([[北アイルランド議会]])は[[1972年]]に閉会し翌年正式に廃止された。北アイルランドでは[[IRA暫定派]]、[[アイルランド共和軍|IRA]]、[[INLA]]、[[アルスター防衛同盟]]、[[アルスター義勇軍]]、RUCと英軍が互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名にも及ぶ。テロは北アイルランドのみならず、イギリス、アイルランドにも伝播していった。