「ヤン・スマッツ」の版間の差分

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当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。国際連盟のパレスチナ委任統治決議でバルフォア宣言の条文を使うことを提案するなどユダヤ人の[[シオニズム]]運動に協力的であり<ref>Klieman, Aaron S. (1991). Recognition of Israel: An End & a New Beginning: An End and a New Beginning. Routledge, p. 16. ISBN 978-0824073619.</ref><ref>Hunter, Jane (1987). Israeli Foreign Policy: South Africa and Central America. Spokesman Books. pp 21–22 ISBN 978-0851244853.</ref>、[[ハイム・ヴァイツマン]]から「モーセ」と称えられたように<ref>Lockyer, Norman. Nature, digitized 5 February 2007. Nature Publishing Group.</ref>[[イスラエル]]では恩人としていくつかの通りや[[キブツ]]に名前がついてる<ref>Beit-Hallahmi, Benjamin (1988). The Israeli Connection: Whom Israel Arms and Why. I.B. Tauris. pp 109-111. ISBN 978-1850430698.</ref>。1926年に刊行している『[[ホーリズム]]と進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。首相として両大戦の間の幾年間に、[[アパルトヘイト]]を進めたかった大部分の[[アフリカーナー]]に反対した。[[第二次世界大戦]]後、彼はファーガン委員会を設立した。それは、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持していた。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年に選挙に破れアパルトヘイトの政策が実行され、1950年死去する。
 
スマッツは、第二次[[ボーア戦争]]の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間は[[ドイツ]]に対して南アフリカの軍隊を仕向け[[南西アフリカ]]を占拠し東アフリカでは[[イギリス軍]]を指揮した。[[1917年]]から[[1919年]]まで英国戦争内閣の一員であり[[イギリス空軍]]創設にも助力している。彼は[[1941年]]に[[イギリス軍]]の陸軍元帥となり、[[ウィンストン・チャーチル]]の下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]両方の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては[[国際連盟]]と[[国際連合]]の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟規約[[国連憲章]]に署名する唯一の人物でもあった。イギリスと[[イギリス連邦]]を樹立する時、いままでの関係を再検討した。
 
2004年、南アフリカ放送協会による古今の南アフリカで一番の偉人を選ぶ投票でその中の一人に選ばれた。政治的な理由により放送には利用されなかったが、最終的なトップ10は第2ラウンドで決定されるが第1ラウンドでは[[ネルソン・マンデラ]]が1位となった。スマッツは6位であった。