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[[File:Vilém syn.jpg|right|thumb|200px|年代記に描かれたウィリアム像]]
'''ウィリアム・アデリン'''
== 生涯 ==
ウィリアムは[[ウィンチェスター]]で誕生した。彼の父ヘンリー碩学王は、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]と王妃[[マティルダ・オブ・フランダース]]の最年少の息子であった。征服王の長男[[ロベール2世 (ノルマンディー公)|ロベール]]はノルマンディー公位を継承し、三男の[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]がイングランド王位を継承した。1100年、ヘンリー碩学王はウィリアム2世の事故死によって王位を継承する。そして1105年にはロベール2世を廃して自らがノルマンディー公となった。
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ヘンリー碩学王はその長い治世の間、隣国の一部が競争関係にある国と同盟を結んだために、幾度かの戦闘の勃発に直面していた。長きに渡ってノルマンディー公国の競争相手であったアンジューの忠誠を確固たるものにするため、1113年2月、ウィリアムをマティルド・ダンジュー(アンジュー伯[[フルク5世]]の娘)と[[アランソン]]で婚約させた<ref name=odnb/>。2人の結婚は1119年に[[リジュー]]で行われた<ref name=odnb/>。
== 死 ==
[[File:BL Royal 20 A. ii, f. 6v. Henry I & White Ship.jpg|right|thumb|200px|ヘンリー1世とホワイトシップ号の遭難を描いた、中世の写本]]
1120年11月25日、ウィリアムは[[ホワイトシップの遭難]]で死亡した。王子とその一行は[[イギリス海峡]]を渡るため[[バルフルール]]を、王家の艦船で最も速く最新のホワイトシップ号で出航した。ウィリアムと彼の郎党は、日が暮れるまで飲酒していた。自分たちは高速船に乗船しており、海上での遅延が実際に影響を与えることはないと確信していたのである。その結果、真夜中に、酔っ払った操舵手が湾内の岩に船をぶつけた。乗組員や乗客たちは、岩から船を引き離すことができなかったか、船が浸水するのを防ぐことができなかった。しかしウィリアムと幾人かの友人たちは、救命艇を下ろそうとしていた。最後の時、ウィリアムは異母妹であるペルシュ伯妃マティルダ・フィッツロイを助けようと急行していた。彼らは小さな艇に身を投じた。「大勢が船に飛び込んだため過密となり、転覆して沈没し、全員を無差別に深みへ埋葬してしまったのである。」<ref>William of Malmesbury, from Marion Meade, ''Eleanor of Aquitaine''</ref>
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ウィリアムの妻マティルドは難破時には別の船に乗船していて助かった。夫に先立たれた彼女は修道女となり、最後は[[フォントヴロー修道院]]の修道院長となった。
== 死後 ==
ウィリアムの死は、ヘンリー碩学王の希望と方針を台無しにした。彼は急いで[[アデライザ・オブ・ルーヴァン]]と再婚したものの、さらに嫡子をもうけることができなかった。明確な男
== 脚注 ==
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[[Category:ノルマンディー家]]
[[Category:水難死した人物]]
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[[Category:1103年生]]
[[Category:1120年没]]
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