「灰田勝彦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
62行目:
昭和30年代に入ると徐々に人気は衰えてくるが、[[ラジオ]]・[[テレビ]]に活躍は続き、作曲なども手掛けるようになった。昭和40年代の[[なつメロ]]ブームでは、欠かせない存在として活躍。昭和53年([[1978年]])1月15日放送の『[[ビッグショー (テレビ番組)|ビッグショー]]』(NHK)はFMラジオでの再放送や番組のLP発売がされ、人気の健在振りを示した。
 
芸能生活45周年を迎えた頃、歌手[[淡谷のり子]]に招かれ、亡くな死去する半年前に淡谷の事務所に移籍。灰田が単なる懐メロ歌手ではなく現役のエンターテイナーとして健在であることを示すべく企画が進められるなどしていた昭和57年([[1982年]])5月21日、銀座の高級クラブで行われたショー出演中に体調不良を訴えはじめ、数日後入院。軽度の脳出血だったため約1ヶ月の入院・リハビリを経て退院したが、その直後末期の[[肝臓ガン]]であることが判明し、従兄弟が院長を務めていた[[半蔵門病院]]に再入院。治療を続け、体調も回復していた。
 
しかし、[[10月26日]]、朝食後に容態が急変し、君子夫人と長女に見守られる中、この世をながら死た。{{没年齢|1911|8|20|1982|10|26}}。朝食をとった直後は、まだ容体は安定しており、大好きだった野球の放送時間を気にして「おい、1時になったら[[1982年の日本シリーズ|日本シリーズ]]をつけてくれ」と言ったのが最後の言葉になった。
 
葬儀には芸能界に留まらず、各界の著名人が顔を連ね、灰田の交友の広さと人気を伺わせた。