「クニャージ・スヴォーロフ (戦艦)」の版間の差分

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{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
| colspan="2" align=center|[[File:Knyaz'Suvorov1904Kronshtadt.jpg|300px|シンガポールを北上するクニャージ・ヴォーロフ。]]
|-
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
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|装甲||[[クルップ]]鋼<br/>舷側:152〜194mm(水線部主装甲)、165mm(弾薬庫)、145mm(艦首尾部)、38mm(水線下隔壁)<br/>甲板:75mm(主甲板)38〜51mm<br/>主砲塔:254mm(前盾・側盾)、63mm(天蓋)<br/>主砲[[バーベット]]部:229mm(甲板上部)、102mm(甲板下部)<br/>副砲塔:152mm(前盾・側盾)、30mm(天蓋)<br/>副砲バーベット部:127mm<br/>7.5cm砲ケースメイト部:76mm<br/>司令塔:203mm(前盾・側盾)、37mm(天蓋)
|}
'''クニャージ・スヴォーロフ''' ({{lang-ru|'''Knyaz'SuvorovКнязь Суворов'''}}) は、[[ロシア海軍]]が[[日露戦争]]前に建造した[[前弩級戦艦]]であり、[[ボロジノ級戦艦|ボロジノ級]]の4番艦である。艦名はロシア語で「公爵スヴォーロフ」という意味であり、[[ロシア帝国]]の[[大元帥]]に叙された、常勝不敗の伝説的な指揮官[[アレクサンドル・スヴォーロフ]]に由来する。[[日本海海戦]]において[[バルチック艦隊]]旗艦を務めたことで知られる。
 
== 概要 ==
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本艦は日露戦争中の1904年9月に就役したが、訓練不足のまま1904年10月には第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)に編入、極東に向け出港している。その後、[[ドッガーバンク事件]]の影響や喫水の問題により、[[スエズ運河]]ではなく[[喜望峰]]経由にて主戦場たる日本の海域へ向かうこととなった。途上、十分な整備を受けられないまま、東アジアへ入る。1905年5月27日の[[対馬海峡]]通過時に日本海軍と遭遇、[[日本海海戦]]が発生している。
 
[[東郷平八郎]]提督の指揮した日本艦隊が、丁字戦法を開始した時期においては、本艦はさしたる損害を受けておらず、逆にクニャージ・スヴォーロフの砲撃は[[三笠 (戦艦)|三笠]]や[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]などの日本の軍艦に相次いで命中し損害を与えたという。しかし、いずれも大破又は小破を負わせたが、日本側艦艇の沈没には至らなかった。やがて、日本側の主力艦隊と本艦とが再び急接近した際に、日本側から[[下瀬火薬]]を用いた砲弾が相次いで着弾した。艦体側面には直撃弾による破孔が開き、上部構造では使用していた塗料に下瀬火薬が引火して火災が発生した。砲撃による損害が蓄積すると本艦の速力は6[[ノット]]近くまで低下し、戦列より落伍した。その後[[魚雷]]攻撃も受け次第に機能を失い19時頃遂に横転し沈没した。本艦に座乗していた[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]司令長官及び生存する幕僚は沈没より以前に[[駆逐艦]][[ブイヌイ (ロシア海軍駆逐艦)|ブイヌイ]]に救出されていたが艦長の[[イグナチウス]]大佐(すでに戦死していたとも)以下乗員は残留しており全員戦死した。
 
この海戦では本来の防御力を発揮できなかったが、原因は波浪により装甲の薄い水面下が露出していたからとも、逆にボロジノ型の設計特有の重量超過で本来の装甲部分が水面下にあったからともされている。
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{{ボロジノ級戦艦}}
 
{{デフォルトソート:くにやし うおろふ}}
[[Category:ソ連・ロシアの戦艦]]
[[Category:日露戦争の艦船]]