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【日独伊防共協定】 2014年7月20日 (日) 05:28‎を統合
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[[File:Japan Germany Anti Commintern Pact 25 November 1936.jpg|thumb|right|250px|日独防共協定の日本語原本]]
 
{{改名提案|防共協定|date=2014年7月}}
'''日独防共協定'''(にちどくぼうきょうきょうてい、{{lang-de|Antikominternpakt}})は、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[11月25日]]に[[日本]]と[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の間で調印された'''共産「インターナショナル」ニ対スル協定'''を指す。締結当初は二国間協定である'''日独防共協定'''と呼ばれ、国際共産主義運動を指導する[[コミンテルン]]に対抗する共同防衛をうたっており<ref>NHK取材班, p17</ref>、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる[[枢軸国]]形成の先駆けとなった。
{{統合提案|日独伊防共協定|日独防共協定|date=2014年7月}}
1937年に[[イタリア王国]]が加盟し、'''日独伊防共協定'''と呼ばれる三国間協定となり、1939年には[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]と[[満州国]]、[[スペイン国 (1939年-1975年)|スペイン]]が参加したことによって多国間協定となった。1941年には条約の改定が行われるとともにドイツ勢力圏にある複数の国家が加盟したが、枢軸国の崩壊とともに消滅した。
'''日独防共協定'''(にちどくぼうきょうきょうてい、{{lang-de|Antikominternpakt}})は、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[11月25日]]に[[日本]]と[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の間で調印された'''共産「インターナショナル」ニ対スル協定'''を指す。国際共産主義運動を指導する[[コミンテルン]]に対抗する共同防衛をうたっており<ref>NHK取材班, p17</ref>、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる[[枢軸国]]形成の先駆けとなった。
 
== 背景 ==
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この複数の関係機関が独自に活動している状態は、ナチス外交の多頭制と、複数路線制を示すものであると指摘されている{{sfn|三宅正樹|2000|pp=46}}。リッベントロップは「リッベントロップ事務所」を設立し、対日交渉に臨んだ。
 
== 日独間の締結交渉 ==
[[File:OshimaHiroshi.jpg|126|thumb|[[大島浩]]駐独武官]]
===第一次交渉===
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== 協定の拡大 ==
日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2299}}。[[重光葵]]のように[[防共]]をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2329}}、大きな動きにはならなかった。
 
[[1937年]](昭和12年)11月6日、[[イタリア王国]]の参加により[[日独伊防共協定]]に発展した。このイタリアの参加により、協定の反英・反西欧的正確はさらに強まった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=47}}。1938年、リッベントロップは外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。しかし反英的でソ連と組むことも辞さないリッベントロップおよびドイツ外務省・海軍と、どちらかといえば親英的で、ソ連打倒を考えていたヒトラーという二つの外交路線が存在していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119}}。日本の各部首脳ヒトラーの意志のみを重視しており、後の独ソ提携で衝撃を受けることになる{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119-120}}。
 
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==事実上の白紙化==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H27337, Moskau, Stalin und Ribbentrop im Kreml.jpg|thumb|200px|[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と握手するリッベントロップ外相1939年8月23日]]
ところがその直後の1939年8月23日には独ソ間で[[独ソ不可侵条約]]が締結された。リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧[[民主主義]]国という性格を持つものだと[[ヨシフ・スターリン]]に説明している{{sfn|三宅正樹|2000|pp=47}}。これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、[[平沼内閣]]は[[総辞職]]したことによって、協定は事実上消滅し、日独の提携交渉はいったん白紙となった{{sfn|森田光博|2007|pp=107-108}}。日本外務省内では協定が事実上白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などの声も起こらず、手続きは行われなかった{{sfn|『日本外交文書』座談会|2013|p=44}}。
 
しかしリッベントロップは翌月9月から再び日本に対する接近を開始した。リッベントロップは持論であるユーラシア同盟がイギリスに対抗できる手段だ説いたが、日本政府の反応は良好ではなかった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=51}}。しかし1940年にドイツがフランスおよびオランダを打倒してヨーロッパにおける勝利をつかみつつあると認識した日本政府は、ドイツが南アジアおよび東南アジアの植民地に進出するのではないかという危惧を抱いた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=51}}。リッベントロップはその危惧を払拭し、日本が南方進出に出るように働きかけ、イギリス・アメリカとの対立を深くることで、ドイツ側の陣営に日本を巻き込もうとした{{sfn|三宅正樹|2000|pp=51}}。日本でもこの動きに追随する方向性が強くなり、1940年9月27日の[[日独伊三国同盟]]の結成に至った。また日本の[[松岡洋右]]外相もユーラシア同盟構想を抱き、1941年の欧州歴訪においてこの構想を実現しようとした。しかしヒトラーは三国同盟結成の時点で[[独ソ戦]]を決断しており、ユーラシア同盟構想はすでに崩壊していた。すでに独ソ関係が変化しているというリッベントロップや大島の言葉には耳を貸さず、1941年4月13日[[日ソ中立条約]]の締結が実現した{{sfn|三宅正樹|2000|pp=57}}。独ソ戦の開始後、防共協定は本来の反ソビエト連邦としての性格を明確に持つようになった。
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* {{Cite journal|和書|author= ゲルハルト・クレーブス |author2=田嶋信雄(翻訳) |authorlink2=田嶋信雄|author3=井出直樹(翻訳)|authorlink3=井出直樹|title=<翻訳>第二次世界大戦下の日本=スペイン関係と諜報活動(1) (南博方先生古稀祝賀記念号)|date=2000 |publisher=成城大学 |journal=成城法学|volume=63 |naid=110000246510|pages=279-320 |ref=sfn}}
*三宅正樹『ユーラシア外交史研究』([[河出書房新社]]、2000年)ISBN 978-4309903828
*[[酒井哲哉]]「[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/16734 防共概念の導入と日ソ関係の変容]」(1990年)
*[[戸部良一]]・[[黒沢文貴]]・[[冨塚一彦]]・[[浜井和史]]「[http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000034816.pdf 『日本外交文書』座談会 『日本外交文書第二次欧州大戦と日本』所収文書から見る 欧州大戦への日本の対応方針]」(2013年、外務省)
 
== 関連項目 ==
* [[コミンテルン]]
* [[日独伊防共協定三国同盟]]
* [[独ソ不可侵条約#四国同盟構想と独ソ協調の破綻]]
* [[新しき土]](ハックはこの映画の制作を口実に来日し、交渉に当たっている。)
* [[共産主義]]
* [[八・一宣言]]
* [[中独合作]]
* [[反共]]
* [[トラウトマン工作]]
 
==外部リンク==
* [http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s11_1936_02.html 公文書に見る日本のあゆみ『共産「インターナショナル」ニ対スル協定・(日独協定)・ヲ公布ス』] 防共協定公布時の閣議議事録が閲覧可能。[[国立公文書館]][[アジア歴史資料センター]]
* {{アジア歴史資料センター|B13090857800|第二編 日本国ト枢軸諸国トノ条約関係/第三 防共関係}}
 
{{DEFAULTSORT:にちとくほうきようきようてい}}
[[ファイル:1938 Naka yoshi sangoku.jpg|right|220px|thumb|日独伊防共協定締結を宣伝する[[絵葉書]]「仲よし三國」(小学館『小学三年生』[[1938年]][[8月]]付録)。上段の丸枠の写真は[[ドイツ国|ドイツ]][[総統]]の[[アドルフ・ヒトラー]](左)、[[近衞文麿]][[首相]](中央)、[[イタリア王国|イタリア]][[イタリアの首相|首相]]の[[ベニート・ムッソリーニ]](右)]]
[[Category:多国間条約]]
[[ファイル:Hanwa Tennoji station 1938.jpg|thumb|right|300px|[[1938年]]10月頃の[[天王寺駅]]。駅前に、[[日本の国旗|日章旗]]とともに同盟国ドイツの[[ハーケンクロイツ]]が掲げられている。]]
{{統合提案|日独防共協定|日独防共協定|date=2014年7月}}
'''日独伊防共協定'''(にちどくいぼうきょうきょうてい)は、[[1936年]]の[[日独防共協定]]が、[[1937年]]11月の[[イタリア王国|イタリア]]の加入によって三国に拡大した、「反ソ」「[[反共]]」を目的とした協定。
 
== 目的と性格 ==
[[フランス]]では、1936年4月に行われた議会選挙で[[人民戦線]]派が圧勝し、社会党の[[レオン・ブルム]]を首班とする人民戦線政府が成立し、[[スペイン]]でも1936年1月に[[共和主義]][[左派]]と[[社会労働党|社会党]]、[[スペイン共産党|共産党]]、[[マルクス主義統一労働者党]] (POUM) の間で協定が結ばれ、2月の選挙で勝利して、共和主義左派の[[マヌエル・アサーニャ]]を首班とする人民戦線政府が成立した。これらの動きには、[[コミンテルン]]が深くかかわっていた。
 
防共協定は、このような[[国際共産主義運動]]の動きに対抗したものであり、「反ソ」、「反共」を強く訴えることで、[[イギリス]]、フランス、[[アメリカ合衆国]]など先進[[資本主義]]諸国内の保守派や[[資本家]]の歓心を得ようという目的も有しており、[[スペイン内戦]]へのドイツとイタリアの干渉、および[[日中戦争]]([[支那事変]])により、これら列強との関係が悪化したことから三国の結束を深める意味もあった。なお、日独伊防共協定成立の際、イタリアの要望で反英協定としての性格が付加されている。
 
== 協定の延長 ==
[[1941年]]11月に延長され、[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]政権下の[[スペイン国 (1939年-1975年)|スペイン]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]、[[フィンランド]]、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]、[[満州国]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[独立スロバキア|スロバキア]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]、[[クロアチア独立国]]、ドイツの占領下に置かれた[[デンマーク]]も参加した。
 
== 関連項目 ==
* [[人民戦線]]
* [[コミンテルン]]
* [[スペイン内戦]]
* [[中独合作]]
* [[日独伊三国同盟]]
* [[第二次世界大戦]]
* [[イ式小銃]]
* [[モ式小銃]]
 
 
{{DEFAULTSORT:にちとくほうきようきようてい}}
[[Category:日本の条約]]
[[Category:反共主義]]