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[[画像:Persia_afghanistan_1848.jpg|thumb|1848年頃の中央アジア]]
'''グレート・ゲーム'''(
==概要==
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[[ファイル:Military Strength in the Russo Japanese War.jpg|thumb|[[日露戦争]]開戦時の戦力比較]]
実際の英露抗争は、[[ユーラシア大陸]]国際政治史の別方面、[[極東]]においてより激しく争われた。[[中央アジア]]における英露抗争に連関する極東国際政治史には、大英帝国・ロシア帝国(のちに[[ソビエト連邦]])に加えて[[日本]]・[[アメリカ合衆国]]・[[中国]]や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両
このゲームは、[[世界の一体化]]が進行するなか、[[帝国主義]]時代の空白域となっていた中央アジアに対し、先鞭をつけて[[緩衝国]]化することが英露双方の重大な関心事となったことで始まり、その舞台は[[コーカサス]]から[[チベット]]におよぶ広大な地域におよんだ<ref name=20c/>。一般的には、[[1800年代]]初頭に始まり、[[1907年]]の[[英露協商]]協定をもって終結したとされる<ref name=20c/>。
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同時に、[[香港]]・[[上海市|上海]]に拠点を得て海上から[[清|清朝]]を侵食した英国と、[[シベリア]]に[[シベリア鉄道|鉄道]]を敷設して[[満洲]]から清朝を侵食し始めたロシアとの競争が、中国・[[李氏朝鮮|朝鮮]]・日本といった現地の各勢力を巻き込んで争われた極東において進行していた。
3番目の抗争地点として、[[チベット]]が浮上する可能性があった。中央アジア・[[新疆]]([[東トルキスタン]])・[[モンゴル]]経由でチベットを目指したロシアと、[[ネパール]]を駒としてチベットに侵攻したイギリスの間で抗争が発生する気配があったが、チベット自体の利用価値が低く英国はそれ以上の関与を放棄し、[[英露協商]]においてチベットへの清朝の[[宗主権]]を英露が尊重する
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[[画像:Japanese troops mopping up in Kuala Lumpur.jpg|thumb|right|200px|[[クアラルンプール]]に突入する日本軍]]
ゲームの駒からプレーヤーになった日本にとって、英国の衰退が決定的となる[[1930年代]]まで、ユーラシア大陸における英露対立は外交政策策定における大前提だったが、その思考を固定化してしまったために、ソ連の出現と米国の台頭により複雑になってゆく状況に適合できないまま、[[東南アジア]]の英領
また、この時期は[[帝国主義]]という商法が終焉を迎えた時期、および米ソ超大国の抗争の時期と重なり、[[中国]]・朝鮮・[[東南アジア]]・[[南アジア]]で激戦が続いた。
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== グレートゲーム ==
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==== アフガン ====
[[ファイル:Great_Game_cartoon_from_1878.jpg|thumb|right|200px|当時のアフガン情勢描いた[[風刺漫画]](1878年)<BR /><SUB>アフガンのシール・アリー王を、その「お友達」である熊(ロシア)とライオン(イギリス)が虎視眈々と狙っている。</SUB>]]
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イギリスはカーブルからの屈辱的な撤退の後、アフガニスタンへの野心を抑えていた。[[1857年]]の[[インド大反乱]]の後、イギリスの政権はいずれもアフガニスタンを[[緩衝国]]と見なしていた。しかし、ロシアは[[1865年]]までにアフガニスタンに向けて着実に南進を続け、[[タシュケント]]が正式に併合された。[[サマルカンド]]は3年後にロシア帝国領になり、[[ブハラ]]の独立は、事実上同年の平和条約で失われた。ロシアの支配は、今や[[アムダリヤ川]]の北岸まで拡大していた。
ロシアが[[1878年]]にカーブルに在外公館を置いたことで再び緊張が高まった。イギリスはアフガニスタンを統治する[[シール・アリー・ハーン|シール・アリー]]が、イギリスの在外公館を受け入れるよう要求した。公館は設置できず、その報復として4万の軍が国境に送られ、[[アフガン戦争|第二次アングロ・アフガニスタン戦争]]が始まった。この第二次戦争はイギリスにとって
イギリスは[[1879年]]、王への即位の条件として{{仮リンク|ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン|en|Mohammad Yaqub Khan|label=ムハンマド・ヤアクーブ}}に{{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}を結ばせ、アフガニスタンを[[保護国]]化した。次いで即位した[[アブドゥッラフマーン・ハーン]]にもこれを認めさせると、イギリスは[[1881年]]までにカーブルから撤退した。ハーンは自分の地位を強化する一方でイギリスにアフガニスタンの外交政策を維持させることを了承した。何とか非情な手法で国内の暴徒を鎮圧し、中央集権に移行させることができた。
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[[ファイル:NamamugiVillage.JPG|thumb|200px|事件当時の生麦村]]
一方、極東ではイギリスの撒いた種が着実に成長していた。
かつて[[イギリス東インド会社]]を通商から締め出し、ライバルの[[オランダ東インド会社]]に欧州との交易を独占させた[[江戸幕府|徳川幕府]]が支配するこの国を、イギリスを出し抜いた米国が開国させた頃、イギリスは日本も中国同様の強圧的手段で言いなりにできると考えていた。しかし、この考えが間違っていた
きっかけは大名行列を横切ったイギリス人達が殺傷された[[生麦事件]]だった。その報復のために差し向けた7隻の軍艦が[[薩英戦争]]で予想外の大損害を受けたのだった。
これ以降、フランスに傾斜する幕府にかわる友好勢力としてイギリスは[[薩摩藩]]に新鋭兵器を提供し、徳川幕府を転覆させる
[[ファイル:Japanesenavalacademy001.JPG|thumb|200px|日本海軍兵学校生徒館]]
イギリスは植民地で幾多の現地人による軍隊を組織し、その征服事業の手足として用いてきたが、装備を持ち込んで訓練を与えれば、それなりの形になった軍隊が出来上がる。また日本人も自力で近代軍らしきものを作り出す
イギリスの目的は、[[1880年]]頃に計画され始めた[[シベリア鉄道]]が完成を迎える[[20世紀]]までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させる
[[ファイル:KumamotoSoldiers1877.jpg|thumb|200px|草創期の日本陸軍将校]]
日本の新しい政府を構成した武士達は、もともとが[[攘夷]]論を信奉していたのであり、その目的を達成するために世界でも例を見ない急速な欧化政策と欧州崇拝ともいうべき信仰に取り憑かれていた。強固な国防体制を築く
イギリスが彼らに協力する
イギリスにとって幸いだったのは、日本人が欧州諸国から最良の相手を選んで学ぶ賢明さを有していた
[[ファイル:Coree.jpg|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー|ビゴー]]の風刺画: 1887年: 朝鮮という魚を釣ろうと競う日本と清国、漁夫の利を得ようと様子見のロシア]]
日本が最初に行った軍事的冒険は、朝鮮の[[宗主権]]を巡っての清朝最強の軍である[[北洋軍]]・[[北洋艦隊]]への挑戦だった。既に日本陸軍は台湾・朝鮮に小規模な出兵を繰り返しており、イギリスが育成した日本海軍は北洋艦隊を首尾よく[[黄海]]に葬って見せ、戦費に相当する[[賠償金]]と[[台湾島]]を清国からせしめた。この戦争でイギリスが日本に対して行った支援は、[[治外法権]]を撤廃した[[日英通商航海条約]]の締結だけだった。
かくして英露間のゲームに、曲がりなりにも独立国である清国と、日本・清国・ロシアいずれかの属領と認識されていた満洲・朝鮮を巡る、新興国家である日本の生死をかけた戦い、という新しい盤面とプレーヤーが加わった。
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やがて[[西太后]]の強権統治で緩慢な死を迎えつつあった清朝が、断末魔のような[[義和団の乱]]で重要な主権の多くを喪失すると、満洲の覇権は義和団の乱で火事場泥棒のように振舞ったロシア軍に握られ、日本が清国から得ていた朝鮮での優位性は風前の灯となった。
ロシアを強気にさせていたのは[[1901年]]に開通したシベリア鉄道と[[露清密約]]であり、ロシアは日本に対して外交的な無条件降伏を迫っていた。日本がロシアに屈すれば、その次に来るのは[[万里の長城|長城]]線を越えた[[コサック]][[騎兵]]達が、北京・天津を一蹴し、イギリスが握る上海まで一挙に南下して来る、という展開であろう。熊は獲物を前にしても、動くと決めるまでは慎重だが、動き始めるとその動きは素早く、相当の犠牲を払わなければ止められない。そのことは、ゲームの相手であるイギリスが一番良く理解していた。
ここでイギリスが日本に与えた支援は再び条約だけであった。イギリスも植民地経済が産み出す富の限界にぶつかり、一方で近代戦の質的変化により気軽に手を出した[[ボーア戦争|南アでの征服戦争]]で国庫が傾くほどの支出を強いられるようになった事態に、世界帝国という商法の黄昏を感じ取っていた。実際のところ既にイギリスは、世界規模でのゲーム当事者としては体力の限界を迎えつつあり、その座を虎視眈々と狙っているのが新大陸の灰色熊だった。
しかし、日本はイギリスが[[栄光ある孤立]]を放棄してまで極東の小国に与えてくれた[[日英同盟]]を、国を挙げての悲願だった“列強”の座に加えてもらえる招待状と考え、自ら膨大な額の[[外債]]を発行し、ロシアとの戦争準備を独力で進めた。そしてこの債権を大量に引き受けたのは、旧大陸での“大熊 vs 猿”の戦争を大衆紙の扇情的な報道([[イエロー・ジャーナリズム]])で
ロシアにはアジア人全体に対する予断(中央アジアでの経験則)があった。開戦前に日本の軍事力を視察したロシア軍の将官
一方の日本には、[[旅順要塞]]の防御力への予断(日清戦争での成功体験)があった。ロシアは旅順に[[セヴァストポリ]]並みの
[[ファイル:Port_Arthur_from_Gold_Hill.jpg|thumb|200px|陥落後の旅順港]]
実際に[[日露戦争]]を開戦してみると、予断が小さい方が正確な戦争準備を行っていた。日本は苦戦しつつもロシアの[[旅順艦隊]]を封じ込め、英国の提供した情報で[[バルチック艦隊]]を迎撃し葬る
==== 終結 ====
ロシアは欧州の国家として初めてアジア人の国家に敗れるという屈辱を味わったが、犠牲は最小限に喰い止められた。しかし、このショックがロシアの対外進出への積極性を失わせた。萎縮したロシアが選択した1907年の[[英露協商]]は、[[ペルシア]]・アフガニスタン・チベットにおける英露の角逐を終了させ、第1期グレート・ゲームの終焉をもたらした。
ロシアはイギリスがアフガニスタンの体制を変更しないと保証する限り、イギリスが統治することを受け入れた。ロシアはアフガニスタンとの全ての政治関係が、イギリスを通じて構築されることに合意した。イギリスは現行の国境を維持し、アフガニスタンにロシア領域に侵攻させないよう積極的に行動することを受け入れた。
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極東におけるロシアの勢力拡張は、すでに日本によって頓挫させられており、その関心は[[バルカン半島]]へ向けられていた。イギリスにとって危険な敵は、欧州においてイギリスと軍拡競争を続け、[[オスマン帝国]]と結んで中東への進出を図る[[ドイツ帝国]]であり、ロシア・フランスとの協調には、より多くの利益が見出されていた。
=== 第
[[ファイル:Gavrilo Princip assassinates Franz Ferdinand.jpg|thumb|200px|[[サラエボ事件]]([[1914年]][[6月28日]])]]
[[ファイル:Leo Trotzki 1917.jpg|thumb|200px|米国からロシアに帰還した[[トロツキー]]]]
[[ファイル:As_Between_Friends_(Punch_magazine,_13_December_1911,_detail).jpg|thumb|200px|イングランドの風刺雑誌(年代不詳)の挿絵:『我々が完全に理解し合えないのなら、私(獅子・イギリス)は、君(熊・ソ連)がそこで小さな遊び友達(猫・ペルシア)としていることと同じことをしたいと思うだろう。』]]
アフガンと極東への進出をイギリスに阻まれたロシアは、その進出の捌け口をバルカン半島に求め、衰退した[[オスマン帝国]]を再度侵食し始めるが、その手段としてロシア自らが煽った[[汎スラヴ主義]]機運に便乗した[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}[[ガヴリロ・プリンツィプ]]が[[サラエボ事件]]を引き起こした。
新たに発足した[[ボルシェヴィキ]]政権は、既存の協定・
このような異質な敵の出現はイギリス人にとって、インド大反乱以来“文明”の普及で久しく味わう
その結果、第
イギリスは、アマーヌッラーが自分
しかし、アマーヌッラーの改革計画は、迅速に十分軍を強化するには不十分で、[[1928年]]に圧力を受けて退位し、王位を継承した兄[[イナーヤトゥッラー・シャー]]も3日で退位した。この危機から台頭したのは、[[ムハンマド・ナーディル・シャー|ムハンマド・ナーディル]]国王であり、[[1929年]]から[[1933年]]まで統治した。ソ連とイギリスは、優勢に状況を進めたが、イギリスがアフガニスタンに4万人の[[職業軍人]]による軍を創設する一方で、それは[[1930年]]から[[1931年]]に[[ウズベク人]]の暴徒と合意を図るよう援助した。
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[[第二次世界大戦]]が始まるとイギリスとソ連の関係は一時的に提携関係が見られた。[[1940年]]両政府はアフガニスタンに、ドイツの非外交組織を追い出すよう圧力をかけ、そうした団体は、両国の情報組織により壊滅した。初めのうちは抵抗を受けた。ソ連とイギリスが協力する時代に入ると、両強国間のグレート・ゲームは小休止した。
== 新グレートゲーム ==
{{main|新グレートゲーム}}
=== 第
[[ファイル:Evstafiev-afghan-apc-passes-russian.jpg|thumb|アフガニスタンから撤退するソ連軍]]
[[1978年]]の[[ベトナム]]軍による[[カンボジア内戦#ベトナム軍介入|カンボジア侵攻]]と[[1979年]]のソ連軍による[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガン侵攻]]を
[[カンボジア]]を巡る抗争は[[国際連合|国連]]の介入によって[[1992年]]に終結したが、アフガンを巡る抗争は、ゲームの負担でソ連が崩壊して、プレーヤーがロシアと独立した中央アジア諸国へ細分化したおかげで盤面が変わってしまい、ゲームの“駒”であったところの[[イスラム原理主義]]と[[パシュトゥン人]]の結合、各民族の重武装化と[[軍閥]]化によって“ゲーム”として単純化できる世界ではなくなってしまった
=== 第
[[ファイル:National Park Service 9-11 Statue of Liberty and WTC fire.jpg|thumb|911事件: 炎上する世界貿易センタービル]]
[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|911事件]]を契機とする[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|米国の直接介入]]によって、再建されたアフガニスタン政権と、一度は崩壊しながらも復活を目指す[[ターリバーン|タリバン]]勢力(旧アフガニスタン・イスラーム首長国)、対テロ戦争の名目で参加させられた[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国、[[日米同盟]]の証として再参加させられた日本などが加わって、第
== 大衆文化におけるグレート・ゲーム ==
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* [[東方問題]]
* [[南下政策]]
* [[中央アジア]]・[[東洋学]] - グレート・ゲーム後期には、[[オーレル・スタイン|スタイン]]、[[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]、[[フランシス・ヤングハズバンド|ヤングハズバンド]]、[[ピョートル・クズミッチ・コズロフ|コズロフ]]ら
== 外部リンク ==
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