「グレート・ゲーム」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tiocaima7n (会話 | 投稿記録)
m Arthur Conollyの英語綴りを加筆した。
編集の要約なし
1行目:
[[画像:Persia_afghanistan_1848.jpg|thumb|1848年頃の中央アジア]]
'''グレート・ゲーム'''(英語 {{lang-en-short|the Great Game}})は、[[中央アジア]]の覇権を巡る[[イギリス帝国|大英帝国]]と[[ロシア帝国]]の敵対関係と戦略的抗争を指す。中央アジアをめぐる[[情報戦]]を[[チェス]]になぞらえてつけられた名称<ref name=20c>江本「『日露』前夜」(2001)pp.19-28</ref>。[[イギリス東インド会社]]の一員であった{{仮リンク|アーサー・コノリー(Arthur Conolly)|en|Arthur Conolly}}が[[1840年]]に[[ヘンリー・ローリンソン (初代準男爵)|ヘンリー・ローリンソン]]少佐にあてた手紙の中ではじめて命名したといわれる。後に『[[ジャングル・ブック (小説)|ジャングル・ブック]]』で知られる[[イギリス]][[作家]][[ラドヤード・キップリング]]の[[小説]][[w:Kim (novel)|{{仮リンク|少年キム|en|Kim (novel)}}]]([[1901年]])により広く使われるようになり、なかば歴史用語として定着した<ref name=20c/>。
 
==概要==
7行目:
 
[[ファイル:Military Strength in the Russo Japanese War.jpg|thumb|[[日露戦争]]開戦時の戦力比較]]
実際の英露抗争は、[[ユーラシア大陸]]国際政治史の別方面、[[極東]]においてより激しく争われた。[[中央アジア]]における英露抗争に連関する極東国際政治史には、大英帝国・ロシア帝国(のちに[[ソビエト連邦]])に加えて[[日本]]・[[アメリカ合衆国]]・[[中国]]や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両[[超大国]]の争いへ継承され、現代においても多数のプレーヤーが参加するという経緯を辿った。極東方面での諸国間の抗争はグレート・ゲームの盛衰と切り離せなかった。
 
このゲームは、[[世界の一体化]]が進行するなか、[[帝国主義]]時代の空白域となっていた中央アジアに対し、先鞭をつけて[[緩衝国]]化することが英露双方の重大な関心事となったことで始まり、その舞台は[[コーカサス]]から[[チベット]]におよぶ広大な地域におよんだ<ref name=20c/>。一般的には、[[1800年代]]初頭に始まり、[[1907年]]の[[英露協商]]協定をもって終結したとされる<ref name=20c/>。
 
===第I1期===
I1期のグレート・ゲームは、一般にほぼ[[1813年]]から[[1907年]]の[[英露協商]]までの期間を指し、狭義には、グレート・ゲームとは専らこの時期の英露によるアフガニスタンを巡る抗争を指す。この時期の英露抗争は中央アジアから[[インド洋]]を目指すロシアの[[南下政策|南下]]と、[[インド]]の征服事業を進めた英国との間で争奪ポイントとなったアフガニスタンにおいて争われた。
 
同時に、[[香港]]・[[上海市|上海]]に拠点を得て海上から[[清|清朝]]を侵食した英国と、[[シベリア]]に[[シベリア鉄道|鉄道]]を敷設して[[満洲]]から清朝を侵食し始めたロシアとの競争が、中国・[[李氏朝鮮|朝鮮]]・日本といった現地の各勢力を巻き込んで争われた極東において進行していた。
 
3番目の抗争地点として、[[チベット]]が浮上する可能性があった。中央アジア・[[新疆]]([[東トルキスタン]])・[[モンゴル]]経由でチベットを目指したロシアと、[[ネパール]]を駒としてチベットに侵攻したイギリスの間で抗争が発生する気配があったが、チベット自体の利用価値が低く英国はそれ以上の関与を放棄し、[[英露協商]]においてチベットへの清朝の[[宗主権]]を英露が尊重することで抗争は終結した<ref group="注釈">[[河口慧海]]は『[[西蔵旅行記]]』のなかで[[1902年]]のチベットにおけるロシアの暗躍ぶり(武器支援等)を記録している。河口は、日本では求法僧として知られるが、欧米やチベットにおいてはしばしば「イギリスの[[スパイ]]」と見なされてきた。「『日露』前夜」pp.24-25</ref><ref group="注釈">1903年7月、イギリスの武装使節団は、チベットがロシアに接近するのを牽制するため、チベットに侵攻している。</ref>。その後、[[1913年]]にロシア勢力下で中国([[中華民国]])からの独立を目指したモンゴルとチベットの間で[[チベット・モンゴル相互承認条約|チベット・モンゴル相互承認条約(蒙蔵条約)]]が締結されたが、ロシア・ソ連ともに中国との関係をより重視していたため、それ以上のチベットへの関与は為されず、第II2期になるとソ連は中国のチベット再征服を支援した。
 
I1期の抗争が頂点に達したのは[[日露戦争]]当時であり、この戦争はロシアの国内体制を動揺させて[[ロシア第一革命]]を惹起し、双方は[[英露協商]]によってゲームを一時中断した。
 
===第II2期===
II2期のグレート・ゲームは、[[1917年]]の2番目の[[ロシア革命]]から[[第二次世界大戦]]の勃発による英露協調までであるが、ユーラシア大陸国際政治史から見ると、1917年のロシア革命から[[ベトナム戦争]]の終結までの長い期間が背景として視野に捉えるべき期間である。第二次世界大戦を挟んで英国がプレーヤーを降りて米国がその座を占めた。ロシアがソ連に変わり、中央アジアではそれほど激しい抗争が発生しない時期が続いたが、極東においては英国の地位簒奪を狙う米国の介入と、当初は英国が用意した駒に過ぎなかった日本が勝手に暴走し始めたことによって、激しい変動が続いた。
 
[[画像:Japanese troops mopping up in Kuala Lumpur.jpg|thumb|right|200px|[[クアラルンプール]]に突入する日本軍]]
ゲームの駒からプレーヤーになった日本にとって、英国の衰退が決定的となる[[1930年代]]まで、ユーラシア大陸における英露対立は外交政策策定における大前提だったが、その思考を固定化してしまったために、ソ連の出現と米国の台頭により複雑になってゆく状況に適合できないまま、[[東南アジア]]の英領[[植民地]]奪取という[[南方作戦|“反則行為”]]によって、英国がゲームを続けられなくなるきっかけを作ってしまい、日本自らは英国に替わってゲームに参加した米国によって、[[日本への原子爆弾投下|“出場停止”処分]]となってしまった。
 
また、この時期は[[帝国主義]]という商法が終焉を迎えた時期、および米ソ超大国の抗争の時期と重なり、[[中国]]・朝鮮・[[東南アジア]]・[[南アジア]]で激戦が続いた。
 
=== 第III3期・第IV4期 ===
III3期・第IV4期は、グレート・ゲームに言及する評論家から[[新グレート・ゲーム]]と呼ばれていた時期があった。特に一部の大衆メディアはアフガニスタンの[[多国籍軍]]と[[ターリバーン]]との戦いを、グレート・ゲームの継承と主張している。
 
== グレートゲーム ==
=== 第I1期 ===
==== アフガン ====
[[ファイル:Great_Game_cartoon_from_1878.jpg|thumb|right|200px|当時のアフガン情勢描いた[[風刺漫画]](1878年)<BR /><SUB>アフガンのシール・アリー王を、その「お友達」である熊(ロシア)とライオン(イギリス)が虎視眈々と狙っている。</SUB>]]
41行目:
イギリスはカーブルからの屈辱的な撤退の後、アフガニスタンへの野心を抑えていた。[[1857年]]の[[インド大反乱]]の後、イギリスの政権はいずれもアフガニスタンを[[緩衝国]]と見なしていた。しかし、ロシアは[[1865年]]までにアフガニスタンに向けて着実に南進を続け、[[タシュケント]]が正式に併合された。[[サマルカンド]]は3年後にロシア帝国領になり、[[ブハラ]]の独立は、事実上同年の平和条約で失われた。ロシアの支配は、今や[[アムダリヤ川]]の北岸まで拡大していた。
 
ロシアが[[1878年]]にカーブルに在外公館を置いたことで再び緊張が高まった。イギリスはアフガニスタンを統治する[[シール・アリー・ハーン|シール・アリー]]が、イギリスの在外公館を受け入れるよう要求した。公館は設置できず、その報復として4万の軍が国境に送られ、[[アフガン戦争|第二次アングロ・アフガニスタン戦争]]が始まった。この第二次戦争はイギリスにとってほとんど第一次の戦争と同じく悲惨なものであった。シール・アリーの打倒には成功したものの、各地で部族の反乱が相次ぎ、損害が拡大した。
 
イギリスは[[1879年]]、王への即位の条件として{{仮リンク|ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン|en|Mohammad Yaqub Khan|label=ムハンマド・ヤアクーブ}}に{{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}を結ばせ、アフガニスタンを[[保護国]]化した。次いで即位した[[アブドゥッラフマーン・ハーン]]にもこれを認めさせると、イギリスは[[1881年]]までにカーブルから撤退した。ハーンは自分の地位を強化する一方でイギリスにアフガニスタンの外交政策を維持させることを了承した。何とか非情な手法で国内の暴徒を鎮圧し、中央集権に移行させることができた。
50行目:
[[ファイル:NamamugiVillage.JPG|thumb|200px|事件当時の生麦村]]
一方、極東ではイギリスの撒いた種が着実に成長していた。
かつて[[イギリス東インド会社]]を通商から締め出し、ライバルの[[オランダ東インド会社]]に欧州との交易を独占させた[[江戸幕府|徳川幕府]]が支配するこの国を、イギリスを出し抜いた米国が開国させた頃、イギリスは日本も中国同様の強圧的手段で言いなりにできると考えていた。しかし、この考えが間違っていたことにイギリスは間もなく気付かされる。
 
きっかけは大名行列を横切ったイギリス人達が殺傷された[[生麦事件]]だった。その報復のために差し向けた7隻の軍艦が[[薩英戦争]]で予想外の大損害を受けたのだった。
 
これ以降、フランスに傾斜する幕府にかわる友好勢力としてイギリスは[[薩摩藩]]に新鋭兵器を提供し、徳川幕府を転覆させることに成功する。この関係は薩摩藩とその友藩が日本の支配権を確立すると一層深まり、イギリスは極東の日本に近代海軍を建設する大事業に関与して行く。
[[ファイル:Japanesenavalacademy001.JPG|thumb|200px|日本海軍兵学校生徒館]]
 
イギリスは植民地で幾多の現地人による軍隊を組織し、その征服事業の手足として用いてきたが、装備を持ち込んで訓練を与えれば、それなりの形になった軍隊が出来上がる。また日本人も自力で近代軍らしきものを作り出すことには成功していた。しかし海軍、それもロシアの有する海軍(イギリスの基準からすれば“沿岸警備隊”程度だったとはいえ)と拮抗できるだけの海軍を、日本に自力で保有させるには、近代的な鉱工業と造船技術に加え、最低でも数十年の外洋での経験が必要だと思われた。
しかし海軍、それもロシアの有する海軍(イギリスの基準からすれば“沿岸警備隊”程度だったとはいえ...)と拮抗できるだけの海軍を、日本に自力で保有させるには、近代的な鉱工業と[[造船]]技術に加え、最低でも数十年の外洋での経験が必要だと思われた。
 
イギリスの目的は、[[1880年]]頃に計画され始めた[[シベリア鉄道]]が完成を迎える[[20世紀]]までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させることにあった。
 
[[ファイル:KumamotoSoldiers1877.jpg|thumb|200px|草創期の日本陸軍将校]]
日本の新しい政府を構成した武士達は、もともとが[[攘夷]]論を信奉していたのであり、その目的を達成するために世界でも例を見ない急速な欧化政策と欧州崇拝ともいうべき信仰に取り憑かれていた。強固な国防体制を築くことだけを政治的目標とし、そのために民生を犠牲にしても構わなかったし、驚くべきことに国民もそれを支持していた。
 
イギリスが彼らに協力することで、その方向をロシアとの対決に誘導するのは簡単なことだった。なによりロシアから見れば、日本の近代的軍備はロシアとの一戦のために準備されているようにしか見えないのだから、ロシアの取り得る選択肢は日本を懐柔するか、まだ貧弱な軍備しか持たないうちに叩くか、そのどちらかしかない。
 
イギリスにとって幸いだったのは、日本人が欧州諸国から最良の相手を選んで学ぶ賢明さを有していたことで、1865年に幕府がロシアに派遣した留学生は公式に失敗だったと見なされるなど、多くの点で欧州の中で後進的地位にあったロシアから日本人が積極的になにかを学びたいと望むことはなく、ロシアが日本に与えられる餌は何もなかった。
 
[[ファイル:Coree.jpg|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー|ビゴー]]の風刺画: 1887年: 朝鮮という魚を釣ろうと競う日本と清国、漁夫の利を得ようと様子見のロシア]]
日本が最初に行った軍事的冒険は、朝鮮の[[宗主権]]を巡っての清朝最強の軍である[[北洋軍]]・[[北洋艦隊]]への挑戦だった。既に日本陸軍は台湾・朝鮮に小規模な出兵を繰り返しており、イギリスが育成した日本海軍は北洋艦隊を首尾よく[[黄海]]に葬って見せ、戦費に相当する[[賠償金]]と[[台湾島]]を清国からせしめた。この戦争でイギリスが日本に対して行った支援は、[[治外法権]]を撤廃した[[日英通商航海条約]]の締結だけだった。
この戦争でイギリスが日本に対して行った支援は、[[治外法権]]を撤廃した[[日英通商航海条約]]の締結だけだった。
 
かくして英露間のゲームに、曲がりなりにも独立国である清国と、日本・清国・ロシアいずれかの属領と認識されていた満洲・朝鮮を巡る、新興国家である日本の生死をかけた戦い、という新しい盤面とプレーヤーが加わった。
78 ⟶ 76行目:
やがて[[西太后]]の強権統治で緩慢な死を迎えつつあった清朝が、断末魔のような[[義和団の乱]]で重要な主権の多くを喪失すると、満洲の覇権は義和団の乱で火事場泥棒のように振舞ったロシア軍に握られ、日本が清国から得ていた朝鮮での優位性は風前の灯となった。
 
ロシアを強気にさせていたのは[[1901年]]に開通したシベリア鉄道と[[露清密約]]であり、ロシアは日本に対して外交的な無条件降伏を迫っていた。日本がロシアに屈すれば、その次に来るのは[[万里の長城|長城]]線を越えた[[コサック]][[騎兵]]達が、北京・天津を一蹴し、イギリスが握る上海まで一挙に南下して来る、という展開であろう。熊は獲物を前にしても、動くと決めるまでは慎重だが、動き始めるとその動きは素早く、相当の犠牲を払わなければ止められない。そのことは、ゲームの相手であるイギリスが一番良く理解していた。
日本がロシアに屈すれば、その次に来るのは[[万里の長城|長城]]線を越えた[[コサック]][[騎兵]]達が、北京・天津を一蹴し、イギリスが握る上海まで一挙に南下して来る、という展開であろう。熊は獲物を前にしても、動くと決めるまでは慎重だが、動き始めるとその動きは素早く、相当の犠牲を払わなければ止められない。その事は、ゲームの相手であるイギリスが一番良く理解していた。
 
ここでイギリスが日本に与えた支援は再び条約だけであった。イギリスも植民地経済が産み出す富の限界にぶつかり、一方で近代戦の質的変化により気軽に手を出した[[ボーア戦争|南アでの征服戦争]]で国庫が傾くほどの支出を強いられるようになった事態に、世界帝国という商法の黄昏を感じ取っていた。実際のところ既にイギリスは、世界規模でのゲーム当事者としては体力の限界を迎えつつあり、その座を虎視眈々と狙っているのが新大陸の灰色熊だった。
 
しかし、日本はイギリスが[[栄光ある孤立]]を放棄してまで極東の小国に与えてくれた[[日英同盟]]を、国を挙げての悲願だった“列強”の座に加えてもらえる招待状と考え、自ら膨大な額の[[外債]]を発行し、ロシアとの戦争準備を独力で進めた。そしてこの債権を大量に引き受けたのは、旧大陸での“大熊 vs 猿”の戦争を大衆紙の扇情的な報道([[イエロー・ジャーナリズム]])で[[エンタテイメント]]として楽しんでいた米国社会だった。
 
ロシアにはアジア人全体に対する予断(中央アジアでの経験則)があった。開戦前に日本の軍事力を視察したロシア軍の将官たちは、本国に対して適切な警告を送っていたが、ロシア政府にも軍にも、そのような急速な軍事的発展を遂げる“アジア人”国家の存在が信じられなかった。
 
一方の日本には、[[旅順要塞]]の防御力への予断(日清戦争での成功体験)があった。ロシアは旅順に[[セヴァストポリ]]並みの[[要塞]]を建設し、他ならぬイギリス人が[[ボーア戦争]]で陣地防衛用に使用した[[機関銃]]と[[鉄条網]]を、ロシア人らしい嗅覚で導入していたが、日本軍にはこれを突破できる装備も知識もなかった。
 
[[ファイル:Port_Arthur_from_Gold_Hill.jpg|thumb|200px|陥落後の旅順港]]
実際に[[日露戦争]]を開戦してみると、予断が小さい方が正確な戦争準備を行っていた。日本は苦戦しつつもロシアの[[旅順艦隊]]を封じ込め、英国の提供した情報で[[バルチック艦隊]]を迎撃し葬ることに成功した。ロシアには緒戦での敗北を取り返すだけの戦力が残っていたにもかかわらず、[[1905年]][[1月9日]]の[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]に端を発する[[ロシア第一革命|革命運動]]([[1905年]] - [[1907年]])の勃発がその投入を困難にした。
 
==== 終結 ====
ロシアは欧州の国家として初めてアジア人の国家に敗れるという屈辱を味わったが、犠牲は最小限に喰い止められた。しかし、このショックがロシアの対外進出への積極性を失わせた。萎縮したロシアが選択した1907年の[[英露協商]]は、[[ペルシア]]・アフガニスタン・チベットにおける英露の角逐を終了させ、第1期グレート・ゲームの終焉をもたらした。
 
萎縮したロシアが選択した1907年の[[英露協商]]は、[[ペルシア]]・アフガニスタン・チベットにおける英露の角逐を終了させ、第I期グレート・ゲームの終焉をもたらした。
 
ロシアはイギリスがアフガニスタンの体制を変更しないと保証する限り、イギリスが統治することを受け入れた。ロシアはアフガニスタンとの全ての政治関係が、イギリスを通じて構築されることに合意した。イギリスは現行の国境を維持し、アフガニスタンにロシア領域に侵攻させないよう積極的に行動することを受け入れた。
101 ⟶ 96行目:
極東におけるロシアの勢力拡張は、すでに日本によって頓挫させられており、その関心は[[バルカン半島]]へ向けられていた。イギリスにとって危険な敵は、欧州においてイギリスと軍拡競争を続け、[[オスマン帝国]]と結んで中東への進出を図る[[ドイツ帝国]]であり、ロシア・フランスとの協調には、より多くの利益が見出されていた。
 
=== 第II2期 ===
[[ファイル:Gavrilo Princip assassinates Franz Ferdinand.jpg|thumb|200px|[[サラエボ事件]]([[1914年]][[6月28日]])]]
[[ファイル:Leo Trotzki 1917.jpg|thumb|200px|米国からロシアに帰還した[[トロツキー]]]]
[[ファイル:As_Between_Friends_(Punch_magazine,_13_December_1911,_detail).jpg|thumb|200px|イングランドの風刺雑誌(年代不詳)の挿絵:『我々が完全に理解し合えないのなら、私(獅子・イギリス)は、君(熊・ソ連)がそこで小さな遊び友達(猫・ペルシア)としていることと同じことをしたいと思うだろう。』]]
アフガンと極東への進出をイギリスに阻まれたロシアは、その進出の捌け口をバルカン半島に求め、衰退した[[オスマン帝国]]を再度侵食し始めるが、その手段としてロシア自らが煽った[[汎スラヴ主義]]機運に便乗した[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}[[ガヴリロ・プリンツィプ]]が[[サラエボ事件]]を引き起こした。 これをきっかけに、スラブ人の盟主として[[第一次世界大戦]]に巻き込まれたロシアは、その負荷に耐えられず、1917年の[[ロシア革命]]で[[ロマノフ王朝]]はあっけなく崩壊してしまう。[[パリ]][[ブティック]]や[[アントワープウェルペン]]の宝飾品細工師たちは、世界で一番の金持ちだった上客からの発注が全てキャンセルされて二度と復活しないことに嘆息したが、イギリス政府にとっても当惑する事態の発生だった。
 
新たに発足した[[ボルシェヴィキ]]政権は既存の協定・[[債務]]を全て無効と宣言したばかりか、[[テロ]]で英国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の従兄弟である[[ニコライ2世]]の一家を皆殺しにし、外務委員となった[[レフ・トロツキー|トロツキー]]がロシア外務省に保存されていた機密文書の束を調べ上げ、共有されていた外交上の秘密を、修飾していた[[プロトコル]]を知性の刃で剥ぎ落としながら遠慮の無い毒舌に塗して暴露し始めた。[[1917年]]10月、ロシア革命中の[[ボリシェヴィキ]]が秘密協定「[[サイクス・ピコ協定]]」を暴露した
 
このような異質な敵の出現はイギリス人にとってインド大反乱以来“文明”の普及で久しく味わうことのなかった恐怖であり、しかも敵は未開の野蛮国ではなく、理性と科学に基づいて革命を指導したと主張している[[レーニン|タタール人]]と[[トロツキー|ユダヤ人]]―[[スターリン|グルジア人]]はこの時点では挙がらない―のコンビに支配された欧州の大国だった。
 
その結果、第II2期のグレート・ゲームが始まった。[[1919年]]の[[アフガン戦争|第三次イギリス・アフガニスタン戦争]]は、時の支配者[[ハビーブッラー・ハーン]]暗殺により勃発した。息子で王位継承者の[[アマーヌッラー・ハーン]]は完全な独立を宣言し、イギリス領インド帝国の北の国境を攻撃した。軍事的な成果はほとんどなかったが、膠着状態は[[1919年]]の{{仮リンク|アングロ・アフガン条約 (1919年)|en|Anglo-Afghan Treaty of 1919|label=ラワルピンディー条約}}で決着できた。アフガニスタンは再び自主的な外交ができるようになった。[[1921年]][[5月]]、アフガニスタンと[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]は友好条約に調印した。ソ連はアマヌッラーに現金、技術、軍備の形で援助を与えた。アフガニスタンにおけるイギリスの影響は衰えたが、アフガニスタンとロシアの関係は、多くのアフガニスタン人が、メルブ遺跡やPanjdehの編入を願いながら、曖昧なままだった。ソ連はこの点についてはアマヌッラーの考えるよりも多くを友好条約から引き出そうとしていた。
 
イギリスは、アマーヌッラーが自分たちの影響範囲を逸脱することを恐れ、そしてアフガニスタン政府の政策がデュラン線の両側で[[パシュトゥン語]]を話す人々全てを支配しようとしていると考え、この条約に応答する形で小規模な制裁を課し、外交上の侮蔑を行った。[[1923年]]、アマーヌッラーはその称号を[[アミール]]からパディシャー(王)と変え、さらにソ連から逃亡した[[ムスリム]]と英領インドから亡命したインド人民族主義者を受け入れることで、イギリスに応えた。
 
しかし、アマーヌッラーの改革計画は、迅速に十分軍を強化するには不十分で、[[1928年]]に圧力を受けて退位し、王位を継承した兄[[イナーヤトゥッラー・シャー]]も3日で退位した。この危機から台頭したのは、[[ムハンマド・ナーディル・シャー|ムハンマド・ナーディル]]国王であり、[[1929年]]から[[1933年]]まで統治した。ソ連とイギリスは、優勢に状況を進めたが、イギリスがアフガニスタンに4万人の[[職業軍人]]による軍を創設する一方で、それは[[1930年]]から[[1931年]]に[[ウズベク人]]の暴徒と合意を図るよう援助した。
119 ⟶ 114行目:
[[第二次世界大戦]]が始まるとイギリスとソ連の関係は一時的に提携関係が見られた。[[1940年]]両政府はアフガニスタンに、ドイツの非外交組織を追い出すよう圧力をかけ、そうした団体は、両国の情報組織により壊滅した。初めのうちは抵抗を受けた。ソ連とイギリスが協力する時代に入ると、両強国間のグレート・ゲームは小休止した。
 
== 新グレートゲーム ==
{{main|新グレートゲーム}}
=== 第III3期 ===
[[ファイル:Evstafiev-afghan-apc-passes-russian.jpg|thumb|アフガニスタンから撤退するソ連軍]]
[[1978年]]の[[ベトナム]]軍による[[カンボジア内戦#ベトナム軍介入|カンボジア侵攻]]と[[1979年]]のソ連軍による[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガン侵攻]]をって、第III3期のゲームが開始されるが、最終的にプレーヤーの数が増え過ぎて(ソ連・米国・中国・ベトナム・カンボジア諸勢力・WTO諸国・タイ・パキスタン・インド・イラン・イスラエル・国連など)、ゲームの展開は複雑になった。
 
[[カンボジア]]を巡る抗争は[[国際連合|国連]]の介入によって[[1992年]]に終結したが、アフガンを巡る抗争は、ゲームの負担でソ連が崩壊して、プレーヤーがロシアと独立した中央アジア諸国へ細分化したおかげで盤面が変わってしまい、ゲームの“駒”であったところの[[イスラム原理主義]]と[[パシュトゥン人]]の結合、各民族の重武装化と[[軍閥]]化によって“ゲーム”として単純化できる世界ではなくなってしまったこともあり、一時的にゲームは“強制終了”させられた。
 
=== 第IV4期 ===
[[ファイル:National Park Service 9-11 Statue of Liberty and WTC fire.jpg|thumb|911事件: 炎上する世界貿易センタービル]]
[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|911事件]]を契機とする[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|米国の直接介入]]によって、再建されたアフガニスタン政権と、一度は崩壊しながらも復活を目指す[[ターリバーン|タリバン]]勢力(旧アフガニスタン・イスラーム首長国)、対テロ戦争の名目で参加させられた[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国、[[日米同盟]]の証として再参加させられた日本などが加わって、第IV4期のゲームが開始されているが、こちらは現在進行形である。
 
== 大衆文化におけるグレート・ゲーム ==
158 ⟶ 153行目:
* [[東方問題]]
* [[南下政策]]
* [[中央アジア]]・[[東洋学]] - グレート・ゲーム後期には、[[オーレル・スタイン|スタイン]]、[[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]、[[フランシス・ヤングハズバンド|ヤングハズバンド]]、[[ピョートル・クズミッチ・コズロフ|コズロフ]]ら[[探検家]]が、英露の対立の間で中央アジアを探索し、その地勢を明らかにして行った。
 
== 外部リンク ==