「安達泰盛」の版間の差分
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| 生誕 = [[寛喜]]3年([[1231年]])
| 死没 = [[弘安]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]([[1285年]][[12月14日]])
| 改名 = 泰盛
| 別名 = 城九郎(通称)、陸奥入道
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[秋田城介]]、[[陸奥守]]
| 幕府 = [[鎌倉幕府]] [[引付衆]]、[[引付頭人]]、[[評定衆]]<br/>[[越訴頭人]]、[[御恩奉行]]
| 主君 = [[征夷大将軍|将軍]]:[[藤原頼経]]→[[藤原頼嗣|頼嗣]]
| 氏族 = [[安達氏]]
| 父母 = 父:[[安達義景]]、母:[[伴野時長|小笠原時長]]の娘
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'''安達 泰盛'''(あだち やすもり)は[[鎌倉時代]]中期の武将。[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]。[[安達義景]]の3男。[[評定衆]]、[[御恩奉行]]。
鎌倉幕府第8代[[執権]]・[[北条時宗]]を[[外戚]]として支え、幕府の重職を歴任する。[[元寇]]・[[御家人]]の零細化・[[北条氏]]による[[得宗専制]]体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に[[弘安徳政]]と呼ばれる幕政改革を行うが、[[内管領]]・[[平頼綱]]との対立により、[[霜月騒動]]で一族と共に滅ぼされた。
元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で[[竹崎季長]]の訴えを聞く姿が『[[蒙古襲来絵詞]]』に描かれている。
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== 生涯 ==
=== 青年期 ===
[[寛喜]]3年([[1231年]])、[[安達義景]]の3男として誕生。母は[[甲斐源氏]]の一族[[伴野時長|伴野(小笠原)時長]]の娘。父義景は22歳、2人の兄がいるが、泰盛は当初から安達氏嫡子の呼び名である「九郎」を名乗っており、安達家の跡継ぎとして周知されていた。生まれた当時、幕府は3代[[執権]][[北条泰時]]の時代
『[[吾妻鏡]]』における初見は泰盛が当時15歳であった[[寛元]]2年([[1244年]])6月17日条で、父義景の代役で[[大番役]]を務める[[上野国]]の御家人らの[[番頭]]として上洛した記録である<ref>『吾妻鏡』寛元2年6月17日条。[[新田政義]]が無断出家(自由出家)の罪により所領の一部を没収され、[[惣領]]の座を追われた時の様子が書かれている。<br>寛元二年六月小十七日丙戌。[[新田政義|新田太郎]]爲令勤仕[[京都大番役|大番]]在京。是爲[[上野國]]役之故也。而稱所勞。俄遂[[出家]]。但不[[触|相觸]]事由於[[六波羅探題|六波羅]]并[[番頭]]'''城九郎泰盛'''等之由。依有注進状。今日評定之次。被經沙汰。任被定置之旨。可被召放所領之由被定云々。又於[[遠国|遠國]]雜訴人者。[[収穫の時|西収]]以前。不可被成召文[[御教書]]之旨。被儲法云々。</ref>。この記述に「'''城九郎泰盛'''」の名が明確に見られることから、この時までに[[元服]]している筈であり、「泰」の字が付いていることから、[[仁治]]3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]([[1242年]][[7月14日]])まで執権であった北条泰時から[[偏諱]]を受けたことが分かる<ref>得宗家は本来ならば[[征夷大将軍|将軍]]の下で一[[御家人]]という立場にありながら、[[烏帽子親]]関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』([[思文閣出版]]、2012年)p.163))、その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されている(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)(→詳細は[[北条氏#北条氏による一字付与について]]を参照)。よって、[[安達盛長]]以来[[鎌倉幕府|幕府]]の信任を得て有力御家人となっていた[[安達氏]](『[[世界大百科事典|世界大百科事典 第2版]]』・「[http://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B0%8F 安達氏]」の項)もその統制下にあり、同じく北条氏と縁戚関係を結んでいた[[足利氏]]のケース([[田中大喜]] 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』([[戎光祥出版]]、2013年))と同様に、[[安達泰盛|泰盛]]が[[北条泰時]]、[[安達宗景|宗景]]・[[安達盛宗|盛宗]]兄弟が[[北条時宗]]、[[安達貞泰|貞泰]]が[[北条貞時]]、[[安達高景|高景]]が[[北条高時]]から[[一字拝領|1字を拝領]]したと考えられる。足利氏において[[通字]]の「氏」が付かない[[足利家時]]について「時」の字が北条氏からの偏諱であることが指摘されており(小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.131))、「時」を通字としない安達氏においても、[[安達時盛|時盛]]、[[安達時顕|時顕]]が同じケースと考えられ、年代的に時頼、貞時から賜ったものとみられる。</ref>。弓馬に優れた泰盛は将軍興行の遠[[笠懸]]、[[犬追物]]などの射手として頻繁に名が見える。泰盛17歳の[[宝治]]元年([[1247年]])、有力御家人[[三浦氏]]と[[執権]][[北条時頼]]の対立による[[宝治合戦]]が起こり、祖父[[安達景盛|景盛]]の叱咤を受けた泰盛は、安達家の命運を賭けた戦いの先鋒として戦った。三浦氏の滅亡により、執権北条氏の外戚として時頼政権を支える安達氏の地位が確立した。
[[建長]]5年([[1253年]])6月に義景が死去し、泰盛は23歳で家督を継いで[[秋田城介]]に任ずる。父の後を受けて一番[[引付衆]]となり、[[康元]]元年([[1256年]])には5番[[引付頭人]]、同時に[[評定衆]]となって執権時頼を補佐した。甘縄の安達邸で誕生した時頼の[[嫡子]][[北条時宗|時宗]]の元服の際には烏帽子を持参する役を務める。父の死の前年に産まれた異母妹([[覚山尼]])を[[猶子]]として養育し、[[弘長]]元年([[1261年]])に時宗に嫁がせて北条[[得宗]]家との関係を強固なものとした。[[弘長]]3年([[1263年]])に時頼が没すると、泰盛は時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった[[北条政村]]や[[北条実時]]と共に[[得宗]]時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となる。[[文永]]元年([[1264年]])から同3年まで実時と共に[[越訴頭人]]を務める。
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== 外部リンク ==
*[http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html 蒙古襲来絵詞]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{安達氏当主}}
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