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[[ファイル:Onodera junai Hidetomo shading his eyes.jpg|thumb|180px|『誠忠義士傳 小野寺十内秀和』([[歌川国芳]]画)]]
[[ファイル:Femme-47-ronin-seppuku-p1000701.jpg|thumb|180px|『誠忠義士傳 斧寺十内妻』([[歌川国芳]]画)]]
'''小野寺 秀和'''(おのでら ひでかず、[[寛永]]20年([[1643年]])- [[元禄]]16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1703年]][[3月20日]])))は、[[江戸時代]]前期の[[武士]]。[[赤穂浪士]]四十七士の一人。
== 生涯 ==
寛永10年(1643年)、[[浅野氏|浅野家]]家臣・小野寺又八の長男として[[常陸国]][[笠間市|笠間]](赤穂移封前の浅野家城地)に誕生。母は[[多川九左衛門]]女。弟に[[岡野包住]]([[岡野包秀]]の父)、姉に[[貞立尼]]([[大高忠晴]]の室。[[大高忠雄]]と[[小野寺秀富]]の母)がいる。また[[間瀬正明]]・[[間瀬正辰|正辰]]父子、[[中村元辰]]なども縁戚にあたる。
[[赤穂藩]]士として仕え、150石を知行。[[寛文]]末から[[延宝]]初年ごろの間に[[灰方佐五右衛門]]の娘の[[灰方丹|丹]]と結婚し
元禄14年([[1701年]])3月14日、主君・[[浅野長矩]]が[[江戸城]]松之大廊下で[[吉良義央]]に刃傷に及び、浅野長矩は即日[[切腹]]、赤穂藩は[[改易]]と決まった。[[京都市|京都]]でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で[[赤穂市|赤穂]]へ駆けつけた。[[赤穂城]]開城では[[大石良雄]]の右腕として活動。[[江戸
赤穂城明け渡し後、6月に京都に戻った。基本的にはその後も大石派(お家再興優先派)として行動し、7月に大石が長矩の親族である[[戸田氏定]]([[大垣藩]]主)に主家再興の嘆願に訪れた時も同道している。その後、長矩の実弟・[[浅野長広]]に広島本家お預りが決まり、主家再興の望みが消えると、大石良雄は仇討ちを確定し、元禄15年([[1702年]])10月に秀和も[[瀬尾孫左衛門]]とともに江戸へ下り、大石の嫡男・[[大石良金]]や養子秀富と麹町中村宿宅にて同居した。偽名として「仙北十庵」と名乗る。その後も討ち入りまでの間、大石良雄をよく補佐し続けた秀和だが、元禄15年(1702年)4月21日には養女いよ、9月5日には弟の岡野包住、9月9日には母と、この頃立て続けに血縁を失っている。
12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して[[吉田兼亮]]、[[間光延]]とともに裏門隊大将大石良金の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、吉田とともにこれにあたり、秀和は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の[[土屋逵直]]邸で家士が騒いでいるので、秀和は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。秀和はその後、二人の敵を倒している。
討ち入り後は大石良雄らとともに[[熊本藩]]主・[[細川綱利]]の下屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年([[1703年]])2月4日、幕府の命により細川家家臣・[[横井時武]]の介錯で切腹。享年61。主君浅野長矩と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。戒名は刃以串剣信士。
なお妻の丹は、秀和の死後の6月18日、京都[[本圀寺]]で絶食して自害し、夫の後を追っ
== 関連項目 ==
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