「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分
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またシャハトは[[反ユダヤ主義]]を好ましく思っておらず、シャハトが経済相にあった間はユダヤ人企業をドイツ人企業に安値で売却させる「[[アーリア化]]」は徹底されてこなかった<ref name="栗原(1997)30">[[#栗原(1997)|栗原(1997)]] p.30</ref>。
再軍備で軍事費が増大すると、国民
[[四カ年計画]]全権[[ヘルマン・ゲーリング]]と摩擦が増え、1937年11月に経済相と全権委員を解任された。ただし代わりに無任所相に任じられ、形式的な閣僚の地位はその後もしばらく保持した。またライヒスバンク総裁職はシャハトが続けた。しかし1939年1月7日にシャハトはヒトラーに軍事費が増えすぎたせいでインフレーションが起こっているとしてこれ以上の軍拡と領土拡大政策を中止すべきと進言した。ヒトラーはシャハトを嫌うようになり、1939年1月19日にはライヒスバンク総裁からも解任された<ref name="成瀬403">阿部、403頁</ref>。無任所相の地位は1943年1月に失った<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
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