「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分

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またシャハトは[[反ユダヤ主義]]を好ましく思っておらず、シャハトが経済相にあった間はユダヤ人企業をドイツ人企業に安値で売却させる「[[アーリア化]]」は徹底されてこなかった<ref name="栗原(1997)30">[[#栗原(1997)|栗原(1997)]] p.30</ref>。
 
再軍備で軍事費が増大すると、国民インフレの不安を持たせずに軍事費を調達する方法として[[メフォ手形]]([[:en:Mefo bills|en]])を導入した。メフォ手形は国防軍から受注を受けた企業が手形の振出人となり、メフォと略称される会社が引受人となり、政府が手形支払いの義務を負い、ライヒスバンクが手形の再割引を保証する手形であった。1934年から1937年の間にメフォ手形の総額は204億マルクにも上った<ref name="成瀬232">成瀬・山田・木村、232頁</ref>。しかしメフォ手形が急増する1930年代半ば以降になるとインフレは避けがたくなり、1938年にはメフォ手形は停止された<ref name="成瀬233">成瀬・山田・木村、233頁</ref>。
 
[[四カ年計画]]全権[[ヘルマン・ゲーリング]]と摩擦が増え、1937年11月に経済相と全権委員を解任された。ただし代わりに無任所相に任じられ、形式的な閣僚の地位はその後もしばらく保持した。またライヒスバンク総裁職はシャハトが続けた。しかし1939年1月7日にシャハトはヒトラーに軍事費が増えすぎたせいでインフレーションが起こっているとしてこれ以上の軍拡と領土拡大政策を中止すべきと進言した。ヒトラーはシャハトを嫌うようになり、1939年1月19日にはライヒスバンク総裁からも解任された<ref name="成瀬403">阿部、403頁</ref>。無任所相の地位は1943年1月に失った<ref name="ヴィストリヒ94"/>。