「ヴィトルト・ルトスワフスキ」の版間の差分

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[[画像:Lutoslawski.jpg|220px|thumb|ルトスワフスキ]]
{{Portal クラシック音楽}}
{{出典の明記|date=2011年4月}}
'''ヴィトルト・ルトスワフスキ'''('''Witold Lutosławski''', [[1913年]][[1月25日]] - [[1994年]][[2月7日]])は、[[ポーランド]]を代表する作曲家、ピアニストの一人。'''ヴィトルド・ルトスワフスキ'''とも呼ばれ、[[ポーランド楽派]]の黎明期に活躍した。
 
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*[[1959年]] - [[1965年]]は、 国際現代音楽協会ISCMのポーランド支部委員に選出。
*[[1963年]]からは、[[ヨーロッパ]]全土で活躍。各地で絶賛される。
*[[1983年]]からは、伝統的なスタイル「交響曲」、「協奏曲」、「ファンファーレ」、「パルティータ」といった楽曲を作曲する事が優勢になった。ポーランド初のISCM名誉会員へ選出
*[[1994年]][[2月7日]]、[[ヴァイオリン協奏曲]]を作曲中に急逝。81歳。
 
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「'''12音和音'''」は12音すべてを用いる和音を指すが、元々第一期から音数の多い和音を好んできた彼にとっては、この合音集合は都合が良かった。このテクニックも後年は特定の音程を強調するなど、調性化が避けられなくなった。
 
[[画像:Lutoslawski3.jpg|thumb|200px|ルトスワフスキ]]
=== 第三期 ===
第二期の作風により、国際的な名声はすでに決定的になったにもかかわらず、個人様式の深化を彼は常に考え続けた。1980年代は著名なクラシック演奏家からの委嘱が増えるにつれ、伝統的な作曲技法への傾斜がより顕著になり、通常の五線譜で作曲されるようになった。
 
「交響曲第三番」は[[ゲオルグ・ショルティ|ショルティ]]の指揮と[[シカゴ交響楽団]]で初演され、未だ現代音楽に疎かった[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の聴衆は大絶賛で迎えた。しかし、この曲は既に[[オクターブ]]や三度[[音程]]に加えて4音[[ライトモティーフ]]まで出現し、ほとんどクラシックにしか聞こえないという批判の声も見られた。[[新ロマン主義]]全盛であった当時は、彼ですらもこの流行に順応する結果を招いたが、管弦楽法の冴えが衰えることはなく、かつ前衛イディオムは表層に現れないために人気は上がりつづけた。
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*[[ヨシフ・スターリン]]没後ほどなくして、ソ連政府の一切の文化的抑制に対して屈しないことを公的に表明した。ポーランドがいち早く現代音楽を擁護し、ほかのソ連の衛星国は後れをとった。
*国際現代音楽祭で自作品が演奏されていた[[松平頼則]]に向かって、「この作品をどうしてコンクールに出さない?公募枠では余りにもったいない。出せば間違いなく優勝<ref>fontec松平作品集のライナーノーツ</ref>」と激励した。ちなみにその作品は「右舞」であり、その後ローマ国際作曲コンクールで優勝した作品が「左舞」である。この経緯は松平のFONTEC作品集のライナーノーツに詳細に経緯が書かれている。
*国際的な名声を表彰して、後年[[ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール]]、[[ヴィトルト・ルトスワフスキ国際チェロコンクール]]、[[ヴィトルト・ルトスワフスキ国際指揮コンクール]]が開催されることとなった。そのコンクール本選会の際に、「作曲家の質は学歴ではなく、作品で選ばれるべきです<ref>江村のブログ</ref>」と[[江村哲二]]へ向かって述べた。
*現役の指揮者であったこともあり、フィテルベルク国際指揮コンクール、ルトスワフスキ国際指揮コンクールは、最終審査で必ず彼の作品を選択できる。