「ベン・ホーガン」の版間の差分

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{{ゴルファー
|名前=ベン・ホーガン
|ラテン文字=Ben Hogan
|画像=[[File:Ben Hogan NYWTS.jpg|200px]]
|国籍=
|生年月日={{生年月日と年齢|1912|8|13|死去}}
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1912|8|13|1997|7|25}}
|出身地=
|利き手=左
|経歴=
しかしながら、ホーガンは、これら評論家達の声を尻目に、復活からわずか5ヵ月後にメリオン・カントリークラブ18番ホールのプレーオフでロイド・マングラムとジョージ・ファジオを下し、自身2度目となる全米オープン優勝を達成した。また、この後もホーガンは、事故で痛めた片足を引きずりながらも、6つのメジャー大会を含むプロゴルフツアー (PGA) 12勝を達成している。
 
駆け出しの頃は、フック(右打ちの場合、打ったボ[[1953年]]に第17回[[マスタルが大きく左側に曲がってしまうこと)に悩まされたがズ・トーナメント|マスターズ]]第5自らのスイングを半ば自動的に行うための「秘訣」を開発した。この「秘訣」は[[1955年]]に雑誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」の記事として紹介されたが、多くの読者はホーガンがその秘訣のすべてを明らかにしたとは信じなかった。
[[1953年]]に第17回[[マスターズ・トーナメント|マスターズ]]、第53回[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]](オークモント、選手と観衆を隔てるロープが初めて導入された大会)、第82回[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]](カーヌスティ)でゴルフ史上初のメジャー大会年間3冠を達成。この年出場したメジャー大会すべてで勝利を挙げるという快挙でもあった。当時のスケジュールでは全米プロゴルフ選手権最終日は全英オープン会期中に設定されたため両方に出場するのは不可能であり、しかも全米プロゴルフ選手権はマッチプレイ形式で1週間ほぼ連日36ホールを戦わねばならず、ホーガンは肉体的負担などを考慮して、キャリアで一度だけ全英オープンを選択して出場したと推測される。全英オープンでは、ディフェンディングチャンピオンの[[ボビー・ロック]]、後に全英を五度制覇した[[ピーター・トムソン]]、[[ロベルト・デ・ビセンゾ]]、[[ダイ・リース]]らの挑戦を退け、2位に4打差をつけて、コースレコードを更新して優勝した。全英オープン初優勝を果たして帰国すると、[[ニューヨーク]]で紙吹雪の舞う凱旋パレードで迎えられた。同年にはトッププロスポーツ選手として[[ヒコック・ベルト]](''Hickok Belt'', 1950年から1976年まで存在した年間最優秀プロスポーツ選手賞)を授与された。
 
引退後は、ゴルフ・クラブ製造会社(その後、キャロウェイ社(Callaway Golf Company)が保有)を創立した。今日でも、彼の名前を冠したゴルフクラブは数多く製造、使用されている。一方、ホーガンが60代後半になるまで、シニアツアーは創設されなかったために、彼はこのツアーには参戦していない。晩年は[[アルツハイマー病]]に悩み、[[1997年]][[7月25日]]に84歳で逝去した。
 
== ホーガンのスイング理論 ==
ホーガンは、同時代のゴルファーの中でも飛びぬけて練習熱心な選手であったことが知られている。ホーガンは、人間のゴルフスイングは「不純物にまみれて(in the dirt)」おり、ゆえに、たくさんボールを打ってこれを洗練されたものにすることが肝要であると考えていた。
駆け出しの頃は、フック(右打ちの場合、打ったボールが大きく左側に曲がってしまうこと)に悩まされたが、自らのスイングを半ば自動的に行うための「秘訣」を開発した。この「秘訣」は[[1955年]]に雑誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」の記事として紹介されたが、多くの読者はホーガンがその秘訣のすべてを明らかにしたとは信じなかった。
 
ホーガンの信じた打撃理論は、堅固で反復可能なゴルフスイングは欠くことのできないわずかな要素から構成されるもので、この要素を正しく、そして継続して行うことが、すなわちスイングの要諦であるというものである。
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