「福島正則」の版間の差分
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** 安芸広島に入国する際に船に地嵐と呼ばれる風が吹いたため、「国入りの初めに地が荒れるとは不吉だ」として何の罪もない水主を斬り捨てた(『[[遺老物語]]』)。
* 関ヶ原の戦いでは第一の武功を賞されたが、関ヶ原ではたびたびそれをなげうつことも辞さない言動をしている。戦いに関連した次のような逸話・研究がある。
** [[岐阜城]]を攻め落とした際には「某<small>(それがし)</small>の武功に代えても」の一言で城主・[[織田秀信]]の助命を嘆願した<ref>織田秀信は正則にとって、主筋(織田信長の家臣が豊臣秀吉で、正則はその家臣である)に当たるため、恩義により助命を嘆願した。</ref>。その直後、家臣が徳川家の[[足軽]]に侮辱されて自害し、その上司である旗本・[[伊奈昭綱]]の[[切腹]]を正則が要求した際にも「聞き容れられなければ城地を立ち去るのみである」と啖呵を切っている。この事件が原因のためか、徳川方の史料で「この人(正則)資性強暴にて、軍功にほこり」(『[[徳川実紀|台徳院殿御実紀]]』)と記されている。
* 武断派の印象が強いが、慶長6年(1601年)の検地で知行高49万8,000石だったのを元和5年(1619年)に51万5,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果を残している。
* 自らは[[キリシタン]]ではなかったが、清洲城主であった頃から一貫してキリシタン保護政策を堅持していた。宗教に対しては寛容な政策を採っていたとされる。
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